■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書15章10節 

★ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。

■O:今日のコラム
主イエスを十字架につけたのは祭司長たちの内にあるねたみが原因だったと聖書には記されています。ねたみは人の内にある深刻な罪であり、人類史上最初の殺人事件も兄カインが弟アベルに対してねたみの思いを持った故に起こりました。

ねたみとは、人が自分よりも優れている様に感じ、良い状況にあるのを見、また自分が持っていないものを人が持っていた時にうらやましく思い、その人に対して攻撃的で批判的な態度になることを意味しています。

たとえ人を直接的な攻撃しなかったとしても、自分がねたみを感じる人の陰口や噂話しを言い、批判し、また思いの中で罪に定めることもねたみの性質です。そうして私たちは人の悪口を言い、考えの中で否定することを通してその人を自分よりも引き下げ、自分が優位に立った気持ちになり優越感を味わおうとするのです。これらすべては、ねたみです。

しかし聖書には、

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)

と記されています。これは、ねたみとは全く逆の姿勢です。しかし、もし私たちが人々を祝福することを喜ばず、ねたみの思いを持って人々を訴え、批判し、のろうことをし続けるのであれば、この御言葉も心に留めておかなくてはなりません。

「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼からと遠く離れました。彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました。それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。」(詩篇109:17~19)

ねたみは初め私たちの心の中から始まりますが、それが次第に私たちの思考となり、心となり、口の言葉となり、人格となり、ついに私たちが人生で結ぶ実となってしまうのです。

多くの場合、不品行や汚れや姦淫の罪などは深刻な罪として取り扱いますが、私たちの心の中にある「ねたみ」はさほど深刻にも感じず放置してしまうことがあるものです。しかし、主の目から見るとねたみも同様に深刻な罪であり、それは殺人の罪の根にある部分なのです。

イエス様がねたみの故に十字架にかかられたことを覚えましょう。それは当時の大祭司たちのねたみだけで無く、私たちの内にある深刻なねたみの罪を背負い、ねたみの生き方から解放をする為に、かかられた十字架でした。

今日、もし心の中に誰かに対するねたみの思いがあるならそれを正直に主の御前に告白し、悔い改めて、十字架の血潮による赦しと自由を受け取りましょう。

■A:考えてみよう
悔い改めの霊が臨むことを求め、御霊の光により心を照らされ、深い領域で悔い改め、ねたみの思いから解放されることを求めて主イエスの十字架の前に進み出て祈りましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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