■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書14章21節
★確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。
■O:今日のコラム
今日の箇所、イエス様のイスカリオテのユダに対する言葉を読む度に長年、いつも疑問がわきました。
「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
子どもの頃は、「こんなことを言われるなんてイエス様はひどいなぁ」と思うことすらありました。愛のゆえにご自分の命さえ死に渡された方、イエス様が何故そのような言葉をかけたのだろうかと。
ユダがイエス様を裏切り、祭司長が差し向けた群衆にイエス様を引き渡す時、ユダはイエス様に口づけをしました。
「それで、彼はすぐにイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って、口づけした。」(マタイ26:49)
その時、イエス様は彼を「友よ。」と呼ばれました。イエス様に「友よ。」と呼びかけられた人は、原語では唯一イスカリオテのユダだけです。イエス様はイスカリオテのユダを「友」と呼ぶほどに愛しておられました。では、何故イエス様は「生まれなかったほうがよかった。」と語られたのでしょうか。
私たちが御言葉を読む時には「主はどこまでも義なるお方、主はどこまでも愛なるお方」という真実をもって読む必要があります。そうする時に、見えてくるもの、聞こえてくるものがあります。
今日の箇所では「人の子を裏切るような人間はわざわいです。」とありますが、実際の原語で使われている言葉の意味合いとしては、「ああ、可哀想だ」という嘆き悲しみが含まれます。つまり、それに続く「生まれなかったほうがよかった…」それは、イエス様を裏切り、サタンに自分の命を引き渡してしまったユダを惜しむ、主の嘆きなのです。
イエス様にとってユダは共に食事をし、共に多くの時間を過ごした愛する尊い弟子でした。友でした。その愛する「友」が、主に逆らい裏切り、滅びへと向かっていたのです。そのことを目の当たりにして語られた言葉は「お前がわたしの愛を離れて、サタンのものになってしまうくらいなら、いっそ生まれないでくれた方がよかったのに…」という、イエス様の心引き裂かれるようなうめきでした。
これほどの主のちぎれそうな御心を見た時、涙が出ました。主は、このように悲痛の叫びを持って私たちを呼んでおられるのだと。
私たちが、罪の中に留まり続けるなら、また罪を手放さずにいるならば、イエス様は私たちの心や歩みを見て同じように嘆かれるでしょう。「どうかわたしの愛の中にとどまっていてくれ。」という悲痛な御声が響きます。
また、イエス様とまだ出会っていないたましいに対して、私たちはイエス様と同じこのような愛と切実さを抱きたいと願います。
■A:考えてみよう
神の傷んでおられる御心を思い、今日も悔い改めをもって、自分の内にある主に対する不従順さ、みことばに対する不従順さを投げ出していきましょう。
また、失われたたましいに対しての主の御心を今日も思い起こしましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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