■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書9章50節
★塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!主の安息を感謝します。
いきなり塩の話か!!となりますが、イエス様は何かを塩にたとえて話され始めました。
日本ではあまり塩の大切さがわからなかったのですが、イスラエルにいると、塩の大切さがよくわかります。特には食事時!!!日本のようにコクのある食事は無いと言っていいでしょう。ですので、何で味をつけるのか、そうです。塩なんです。野菜、サラダ、魚、肉、豆、スープ。これらはそのままでも食べれます。しかし、塩がなければ本当に味に引き締まりがありません。食べれるけど!食べてる気がしない!!!という感じで、塩の大切さを知りました。
聖書で言う「塩け」も同じことを言ってると思います。欠かせない!という存在です。
イエス様は「神の子」のことを言っているのではないのでしょうか。この世にあって、人々は何を望んでいるのでしょうか。逆に言うと何が失われているのでしょうか? 「神の子」ではないのでしょうか。キリストに似た者。キリストと同じように天の父から生まれた者。神の子として歩んでいる者。
これらの人々をイエス様も、またこの世の人々も、自然界さえも待ち望んでいるのです。その人こそ、欠かせない!!絶対必要なもの!となる塩けのある人なのです。
塩けを失うとはどういうことなのでしょう。
塩が塩の役割をしていない。なんと恐ろしいことでしょう。味のしないコーヒーと同じということです。見た目はあるが、実の所が失われてる。。。もはや塩でもないですね。塩の真似をした白いもの。 。。でもイエス様は、私たちにそのようにならないように!と先に語っています。そうです。そういうことも起こりうるからです。
どのように塩けをつけるのか。これがポイントです。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」(マルコ9:49)
火によって。この火が必要なのです。聖霊様。もっというならば主ご自身であると言えます(申命記9章3節)。精錬してくださるお方、塩けを与えてくださるお方は、ただお一人だけなのです。
聖霊様により精錬される時、実際体が焼けるということではなく、御言葉により思いや考えが研ぎ澄まされ、聖められ、自分の考えが焼かれていく、ということでしょう。
塩が塩であり続けるように、また塩けがなくなることはあってはならないように、神の子である私たち一人一人が日々聖霊様という火によって整えられ、絶えず塩けの効いた者でありますように。
■A:考えてみよう
塩けが失われていないだろうか。神の子として歩むとはどういうことであろうか。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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