■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書8章38節

★このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。

■O:今日のコラム
近頃、人の罪と暴虐はますます増大しているように感じます。日本国内や海外においても、今まででは考えられない様な残酷な事件が次々と起こり、一つの悲惨な事件が起こると、次の週にはもっと悲惨な事件が起こるので、前の事件を忘れてしまう程に、悪いニュースが更新されていっています。

今の時代はまるでノアやロトの時代の様に人々の罪と自己中心性がこの世に満ち始めています。まさに今私たちは終わりの時代の真只中にいることを心に覚えて生きる必要があります。なぜなら、意識して信仰の目を覚ましていなければすぐにこの世の流れに私たちも押し流されてしまうからです。

主イエスはこのような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じることのないようにと注意を促しておられます。ここで主御自身と御言葉を並列に置いておられることに注目する必要があります。イエス様を愛することとは、主の御言葉を愛することだからです。

「御言葉を恥じる」とは、別の言葉で言うなら「御言葉を軽んじる」と表現することが出来るでしょう。たとえクリスチャンたちの会話であっても「聖書は何千年も前の書物だから今の文化に適応するのは難しい。」とか「御言葉はこう言っているけど現実的にはこうすべきだ」と、御言葉よりも人の考えや目に見える現実の方を優先することが多くあります。

またヒューマニズムは神中心の御言葉から人中心の御言葉の解釈へと変えてしまいます。聖書を読んでいるとたとえば「神の裁き」や「聖絶」という箇所があります。そのような箇所を人間中心的な視点で見るなら「なぜ愛の神がこんなことをするのか。矛盾している。」と思うようになるのです。

もちろん私たちは「なぜ」という疑問を持ち、御言葉を調べ、探求することは重要なことです。しかし、ある箇所においては原文を調べても、研究しても理解できない箇所があるのです。その時私たちは「なぜ」と言う代わりに「神は神なので、私たちの理解を超えた大いなる計画と考えをお持ちだ。」という心で御言葉を読むことが大切です。

ヨブ記を読むと数多くの「なぜ」という疑問がヨブから出ます。しかし、その結論は「主が主であり、人の理解を超えた大いなる主権者。」ということにヨブが気づくのでした。

御言葉を通読していると、地名や人の名前、細かい律法の規定や分量など、読んでいて自分にとって何の得になるのだろうか。と思うような箇所が多く存在します。しかし、そのような箇所も「主の御言葉なので愛します。」という心持ちで読む時、今まで目につかなかった様な箇所に御霊なる主が啓示の扉を開き、知恵の光を照らして下さるのを経験するようになります。

この時代にあって主の御言葉を愛しましょう。日々の生活の中で御言葉を朗読しましょう。御言葉を内なる人に蓄えるなら、その御言葉を行う力をも御霊なる主が必ず与えて下さいます。

■A:考えてみよう
1日10章の御言葉を朗読するチャレンジに加わりましょう。「なぜ」とあれこれ考える代わりに、とにかくやってみましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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