■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書3章9~10節
★イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
■O:今日のコラム
あらゆる町々から、大勢の必要を持った人々がイエス様にさわろうとして、みもとに押しかけてきました。イエス様が触れるなら、たちどころに病気は癒され、押しかけて来た者たちを片っ端から癒していくことがおできになったはずです。また、どんな必要や問題もすぐに解決することができたでしょう。
しかし、イエス様は、全ての人の必要に答えることはなさいませんでした。
苦しみ、痛み、悲しみを背負って押し寄せてきた人々に対してイエス様は、病を癒し、苦しみ痛み悲しみを取り除くことをせず、小舟に乗って物理的な距離を置かれました。そして、主は彼らに「みことば」をお語りになったのです。
イエス様に触れて、癒していただこうとして押し寄せて来た人々にとって、このことは期待外れだったでしょう。私たちもしばしば、自分の必要(病の癒やし、生活の豊かさ、何を食べるか、何を飲むか、どこに住むか…)といった、表面的なことだけを求めて教会に来ることがあるかもしれません。そして、もし答えがなければ失望し落胆することでしょう。
もちろん、主は全ての必要を満たすことがお出来になります。しかし、主が必要とされているのは、ただパンを求めてみもとに押しかけてくる者たちではなく、神のみことばを慕い求める者たちなのです。主はそのような者たちに、みことばを語りかけることによって出会い、交わり、関係を持ってくださいます。
神様を信じてなくても、癒やしや解放というのは起こるものです。しかし、みことばを知らないなら、いくら奇跡を体験したとしても、生き方はこの世の人たちと全く変わりません。癒しを求めて教会に大ぜいの人が押し寄せてきたとしても、それは人の目には大きくうつるかもしれませんが、主は、ご自分の偉大な業や食物だけを求める群衆には、目を留められないのです。
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2b)
主が目を留めておられるのは、神のみことばを愛し、尊び、飢え渇きをもって慕い求める人々です。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。…主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(第1ペテロ2:2~5)
生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばを求めて主のみもとに近づくなら、私たちの必要、願いをはるかに超えて、主が私たちに与えようとされているご計画を見させてくださいます。そして、主のご計画を見る者たちに主の目は注がれ、その者たちを通して主の偉大なご計画が成就されていくのです。
主のご計画は偉大であり、スケールの大きいものです。生活の必要ばかりに目を注ぐのではなく、また、そのために主に近づこうとするのでもなく、ただみことばを愛するがゆえに、神の国とその義とをまず第一に求めるがゆえに、主に近づいてまいりましょう。
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊の喜びだからです。」(ローマ14:17)
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
今日、私たちの目が、自分の願いではなく、神の願い、神のご計画を見る目へと変えられていきますように。今日捧げられるすべての礼拝の上に、神の御国が来ますように。神の主権が教会に下り、教会を通して、置かれている町々に、都市に、日本に、主の変革がもたらされていきますように。
■A:考えてみよう
神の国をまず第一に求め、主に近づいてまいりましょう。
今日、飢え渇いて主のみことばを受け取りましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひさえ 】
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