■S:今日の聖書の言葉
詩篇43篇1節
★神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。
■O:今日のコラム
自分にとって問題が起こった時や不都合が生じた時に、私たちがとってしまいやすい行動は、周りに問題を見つけるということです。
しかし、もしも私の手に傷があったとします。そうすれば、手が何かに触れるたびに痛みを感じるのです。そのように、もし私自身に問題があるならば、何かが起こるたびにその問題は出てくるのではないでしょうか。
聖書を朗読する恵みを味わっていますが、聖書の通読を終えて思うことは、私の内側のことを聖書は語っているということです。
イスラエルの民の歩みの中で、たくさんの不従順や偶像崇拝のことが記されています。また詩篇や箴言の中には、愚かな者、悟りのない者、二心の者、悪を行う者、、、など主に喜ばれない人の性質があらゆる言葉をもって記されています。それをまるで、そういう人たちのグループがあるかのように考え、外からくるそのような攻撃や悪から守られますようにと考えていた私がいます。
確かに目に見えてある、攻撃や悪から私たちは守られなければなりませんが、しかしそれ以上にわたしという一人の人の中にそのような性質がいるのではないでしょうか。
「これらのことが彼らに起こったことは、戒めのためであり、…私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(第1コリント10:11~12)
だからこそ、通読箇所の詩篇43篇を朗読、黙想した時に、今日の聖書箇所から、「私の訴えを取り上げてください。自分を正しいとする訴えを手放させてください。私のうちにいる欺きと不正の人から私が助け出されますように。だからこそ、他の人ではなく、状況でなく、私のために、私自身をさばいてください。」という祈りがこみ上げてきて涙が止まりませんでした。
主にあって、他の誰でもなく自分が正しくさばかれること、これは幸いなことではないでしょうか。
聖書に出てくる人物の中で、罪を犯した時に御顔を避けたという場面を目にします(アダム、ヨナ等)。裁きを恐れる心が確かに人にはあるのです。
しかし、神から避けるのでなく、本当に必要なことは神の御前に立つことではないでしょうか。逃げたとしても、避けたとしても、自分の力によっての解決などないのです。
神様の前に立つということは、神様の聖という性質を目の前にして私たちが取り扱われるということを学びます。主に向くからこそ、おおいが取りのけられて、本当に取り扱うべき自我を砕き、自分を捧げることへと主が導いてくださるのです。
しかしそれを通して、解放され自由にされ、本来あるべき主が非常に良いと創造された姿へ、キリストの形へと変えられていくのです。
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:16~18)
学校、仕事、家庭、将来のことにおいては、皆それぞれ、任せられたこと、走るべきレースは違うでしょう。しかし、内側の悪の性質を捨て去って、内なる人が造り変えられることは皆の召しです!
今日もお一人お一人の中にキリストが形造られていきますように。
■A:考えてみよう
・周りや状況に問題を見つける、将来のことや仕事のことを考える、、、どちらにしても外側のことに目を向けることが私たちは得意なように思います。しかし私たちが任せられているのは、まず、最小単位の私という存在を主によって治めていただくことだと思います。
この時間、心の目を内側にむけて、自分自身の中にある悪の性質を点検し、取り扱ってくださいと、願い求める時間を持ちましょう。
私が変わることは小さいことなのでしょうか?こんな小さなことに時間をかけるなんで無駄なことでしょうか。いいえ、それこそ勝利の鍵です!自分自身もそのことを何度も体験しています。私が変わるなら、私のうちに主が住まわれるということですから、結果として、状況も変わり、あらゆる関係の中にも主の変化が訪れるのです!
■P:祈り
愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン
【 ゆうこ 】
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