■S:今日の聖書の言葉
詩篇2篇10~11節
★それゆえ、今、王たちよ、悟れ。
地のさばきづかさたちよ、慎め。
恐れつつ主に仕えよ。
おののきつつ喜べ。
■O:今日のコラム
シャローム。今日も1日、私たちは主がどのようなお方なのかを悟り、そして、その方の前に慎み、恐れつつ仕え、おののきつつ喜んで歩んでいきましょう。
日々の歩みの中で、このような錯覚に陥ることがないでしょうか?「私が成し遂げた。私が頑張ったからできた。」
主の民である私たちはこの事を常に悟って生きていきたいと思います。主がいなければ、本当に何一つできることはないということを。主の助けなしに、私たちは主の前に生きていくことができないことを常に悟っていましょう。
そうすることによって、私たちは、恐れつつ主に仕えることができ、また、おののきつつ喜ぶことができます。
この「おののきつつ喜べ」という表現、私は最初読んだ時、矛盾していると思いました。どうして、おののいている人が喜ぶことができるのか。逆に、喜んでいる人は、おののいていない。多くの場合、喜んでいる人は、大胆ですよね。
ヘブライ語でも調べましたが、「おののく」とは、原文では、震えるという意味です。旧約聖書では、たったの5回しか使われていないのですが、震えるくらい恐れている状態のことを表しています。英語では、パニックしているとも訳されています。そのような状態で「喜べ」と。理解しづらいコンセプトではないですか。
しかし、このコンセプトは主からの知恵であり、私たちを守る命令です。私たち人間は何か成功するとき、喜びます。しかし、その喜びは高ぶりを私たちのうちに引き出してしまう危険性があります。多くの聖書に出てくる信仰者たちを見ても分かると思います。ギデオンは勝利し、喜びのあまりに、エポデを作り、それが、後にイスラエルのつまずきになります。
主は、喜ぶことを命じておられるくらい、私たちに喜んでほしいと願っておられます。しかし、それは思い上がって、主が成してくださったことを忘れて喜ぶこととは違うということを警告しています。それは、私たちを高ぶりに導き、ついには、私たちを滅ぼしてしまう罪となるからです。
主は主。主がいなければ、私たちは何もないものであることを悟りつつ、おののきつつ、主と共に喜びましょう。
■A:考えてみよう
何か喜ばしいことがあるたびに、主をお招きして、主と共に思いっきり喜びましょう。すべての栄光、誉れを主にお捧げして喜びましょう。
成功の中に、主を忘れないようにしましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 かよ 】
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