■S:今日の聖書の言葉
民数記11章4節〜6節(民数記12章)
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「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」
■O:今日のコラム
みなさんは、何日間同じものを食べ続けたことがありますか?以前、チャーチスクールで一週間続けて給食が餃子だったことがあります。最初はあまりの美味しさに皆感動していたのですが、週の最後には「え〜!また〜!」という声もありました。(ちなみに、このあとのみことばでうずらが飛んで来るので、今日のみことばの箇所の具材で餃子が作れますね。)
人は同じものを食べ続けると飽きてしまうという性質があります。今日の聖書箇所では、荒野でマナを食べ続けたイスラエルの民が「マナに飽きた!肉を食べたい!」と言い出す所になります。
今日という日は、イスラエルの暦では過越の祭と五旬節の間の期間で、「オメルを数える」という時期に当たります。イエス様の十字架を啓示する過越の祭り(ニサンの月の十四日の夕暮れ)から数えて最初の安息日の翌日はイエス様の復活を象徴する初穂の祭りになります。この日から7週間と1日、つまり50日を数えると五旬節になります。
この期間、初代教会の人々も毎日1オメルの大麦を毎日神殿に捧げていました。これは毎日の礼拝を意味します。1オメルは2.3リットルなのでペットボトルで換算すると身近に分量を想像することができると思います。
このオメルとマナは密接な関係があります。
「その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。
モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。 主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」」(出エジプト記16章14節〜16節)
そうです。マナを集めるのはひとり1オメルずつです。このマナはイスラエルの民が出エジプトをして荒野で空腹になった時、神に叫び求めたら神が天から送って下さった奇跡の食物です。これは私たちにとってどういう意味があるのでしょうか。
「 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6章31節〜35節)
イエス様こそが私たちのいのちのパンであります。イエス様はヨハネの福音書1章1節では「神はことば」であると書かれています。とうことは、マナは私たちにとっては日々のみことばであると言うことができます。
しかし、今日の聖書の箇所では見落とすことの出来ない事が書かれています。イスラエルの民はこのようなマナに食べ飽きたと言っているのです。これは大変なことです。私たちに適応するなら、「イエス様のみことばはつまらない。それよりも刺激的なテレビやインターネットなどの世の中がもたらす事柄に関心がある」と言っているようなものです。
私たちが普段食べている肉の食物は、あるいは飽きてしまうこともあるでしょうが、みことばに関しては決して飽きてしまうことはありません。みことばを一番に出来ないのであれば、私たちは自分の信仰をもう一度点検する必要があります。
イスラエルの民になぜ、このようなことが起こってしまったのでしょうか。みことばをよく見ると、イスラエルの民は情報操作をされたということがわかります。
今日のみことばの最初には「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ」と書かれています。そうです。「マナが飽きた!」と言い始めたのは出エジプトする時にイスラエルの民と混じって荒野に出てきた者たちが言い始めたのです。
私たちはこの事によく注意する必要があります。私たちの内なる人はみことばを求める性質があるでしょう。しかし、ローマ8章に書かれている通り、肉の性質がそれを妨げてしまうのです。
神様は「混じる」事を嫌われます。創世記1章でも、神は光と闇、乾いたところと水のある所など、区別されました。私たちも生まれながらに罪の性質を持っていた、いわば茫漠とした状態でしたが、神のみことばの光が私たちの内に差し込んできた時、何が正しく、また間違っているかを正確に判別できるようになります。
そのようにして、私たちの内なる人は御霊の助けによってみことばにより区別され続け、やがて神の似姿へと変えられていくでしょう。
ちょうどオメルを数えるというこの時期、イエス様も十字架にかかられた後、復活のからだで弟子たちに現れてくださいました。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1章3節)
今日と言う日は、イエス様が直接現れてくださり、「神の国」の事を教えて下さるシーズンです。私たちは選択することができます。すでに私たちに与えられている神のことばを選び取るのか、それともそれを選ばず、世の中に属するものを選び取るのか。
荒野で「マナが飽きた!肉を食べたい!」と言って、神の戒めを無視し、自分の肉の声に従った結果は疫病にかかり、死んでしまったと書かれています。彼らが葬られたのは「キブロテ・ハタアワ」だと書かれています。(民11:34)その意味は「欲望の墓」です。
彼らは「何もなくて、このマナを見るだけだ。」と惑わしますが、私たちに必要なのはこのマナだけです。これだけで私たちは生かされます。創世記から働き続ける悪魔の策略にだまされてはいけません!
もう一度みなさんにお聞きしたいです。霊的な領域において、神様のいのちのパンを食べたいでしょうか。それとも、自分の欲望に従って自分の好きなものを食べたいでしょうか。その結果がどうなるかを真剣に考えてください。これは永遠のいのちに関する重要な事です。
やがて来る父の約束の御霊を受ける日である五旬節(今年は5月20日)を目指して、今まで以上神の国に集中する時を持ちましょう。信じて求め続ける者に、主は報いて下さるお方です!
■A:考えてみよう
・今日はイスラエルの何の祭りと何の祭りの間の期間ですか?
・それはなんという名前で、何日間続きますか?
・出エジプトの時代、イスラエルの人々に「マナが飽きた!」という思いをもたらしたのは何が原因でしたか?
・私たちにとってマナとは何ですか?
・復活のイエス様はこのシーズンに弟子たちに現れ、何を教えて下さいましたか?
・ここから自分に適応できることは何でしょうか?
今日から連休がスタートします。この時間を神の国のために捧げようではありませんか。
いのちのパンを食べ続けることを阻止する混ざり者を今日、イエス様のお名前によって締め出していきましょう!そして、蜜よりも甘いみことば本来の味を味わうことのできる霊的な舌を主に願い求めていきましょう。
■P:祈り
愛する天のお父さん、今日も私に生ける神のいのちのパンであるみことばが与えられていることを感謝します。ヤコブの手紙1:21には「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。
今日、私の中に以前の生活からついてきている混ざり者をみことばの光で照らし、明らかにしてくださいますように。彼らの口をイエス様のお名前によって黙らせ、私の思いが神様からそれてしまわないように助けてください。
私たちがすでにあたえられているいのちのパンに飽きたと言わせる一切の惑わすものがイエス様の血潮の力によって退けられますように。そして、シンプルでありながら蜜のように甘いみことば本来の味を味わうことができるように助けてください。今日、イエス様が直接私に現れてくださり、エマオの途上で弟子たちにバイブルスタディーをしてくださったように、私にもみことばを教えてください。
いのちのパンなるお方、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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