■S:今日の聖書の言葉
民数記9章15~18節
★幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
■O:今日のコラム
今日の9章では、エジプトの国を出てシナイの荒野にいた民が、律法に従い、幕屋を建てました。その幕屋を、昼は雲、夜は火となって主が導いてくださったことが記さています。
新約の時代に生きる私たちは、私たち自身が主の住まう宮、幕屋であることが聖書に記されていますが、旧約の幕屋を主が導かれたならば、私たちも主が導いてくださるのです。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(第1コリント3:16~17)
民数記の今日の箇所を朗読し、イスラエルの民のことを考えた時、彼らは「荒野にいた」ということが心に留まりました。イスラエルの民がエジプトにいれば頼りとなるものがたくさんあったと思います。
しかし、出エジプトしたのです。荒野の中では灯りや建物、道があるわけではありません。そうであるならば、荒野ではこの主の導きが何よりもの頼りであったと思います。
私たちはどうでしょう。主の導きを頼りとしているでしょうか。
エジプトはこの世の象徴とされていますが、この世のもの、豊かさ、考えが満ちる中にあっては、私たちは本当に頼るべきものに頼ることができません。だからこそ私たちも出エジプトし、荒野に心を置く必要があると思わされます。
荒野とはミ・ダバール、神のことばが臨むところです。貧しくなった、自我を放棄した者の心にみことばが臨むのです。このみことばこそが私たちを満たし、私たちを導きます。
イエス様も荒野に導かれ、試みに合われたとき、このように宣言されことを覚えます!
「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4:4)
また、イスラエルの民がじっと主の合図を見張り、主の時に合わせて進んだように、私たちも神のことばを見つめ、見張り、これに従って歩む必要があるのではないでしょうか。
荒野では、みことばを見つめ、みことばに従って歩むことが命の道なのです。そのような心をもってみことばを見張っているのかと問われたように思います。また、神の時よりも、自分のタイミングや願いが先行してしまうことを思わされます。
しかし自分が中心となり神様を動かすのではなく、神の完全なみことばの下にへりくだるときに、私たちは真に生きることができるのです。ですから、いつも、この命の中を歩んでいきたいと願います。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)
■A:考えてみよう
・みことばを妨げる、この世の考え、慣習それらを手放し、こころを荒野としていくことができるように祈り求めていきましょう。
・毎日主がみことばを送り私たちを導いてくださいます!今日もみことばを見つめて歩みましょう。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)
■P:祈り
愛するイエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。
【ゆうこ】
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マナメールが昨日から届きません。明日は届きますように
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