■S:今日の聖書の言葉
ヤコブ書1章12~14節

★試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

■O:今日のコラム
私たちは人生の中で様々な困難に遭います。もしかしたら、現在、苦難の中におられる方もいるでしょう。私たちは苦難の中で、どのように主に祈ったら良いのでしょうか?苦難の中でどのような心の態度をもつ必要があるでしょうか?

それには、まず自分が置かれている苦難がどこから来ているのかを知る必要があります。私たちが人生で度々遭遇する苦難には、大きく分けて2つの種類があることを、今日の箇所が教えてくれています。私たちがその苦難がどこから来ているのかを見極める時に、正しい心の態度を持って主の御前に祈ることが出来ます。

苦難の一つ目、それは神からの試練です。

試練は神からのものであり、私たちを成長させる訓練であります。神は愛する者、私たちを子として扱って下さるゆえに、義の訓練としての試練と懲らしめを与えられます(ヘブル12:5~8)。けれども、それには脱出の道も備えられているという約束を感謝します!

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)

神からの試練であるならば、子として扱われていることを思い起こす必要があります。もし皆さんが多かれ少なかれ誰かを訓練したり、育てたことがあるならば、なおのことお分かりいただけると思いますが、見込みの無い人には多くを任せたいとも思いませんし、訓練を課して成長を期待することはあまりないかも知れません。

まして、訓練やチャレンジを嫌がる者、成長を望まない者に訓練やチャレンジを与えると、逆に恨まれる場合もあるかも知れません。恨まれるのも馬鹿らしいし、成長したくないならそのまま楽に過ごしていてくれたらいいと思うのが、上に立つ者の心情ではないかと思います。

親は我が子の成長を願うものです。神は私たちの成長を見込んで下さっています。私たちを子として扱い、内なる人の完成をみたいと願っておられます。それゆえに与えられる試練は子として扱われ、神が多くを任せたいと願って下さっている証しでもあります。

「耐え抜いて良しと認められた」あかつきには、主が何を任せてくださるのでしょうか?!そこにも大きな希望があります。

もちろん、聖書でもパウロが言っているように、試練や神の懲らしめは決して喜ばしいものではありません。むしろ、それを避けられるなら、避けたいと誰もが願うでしょう。私も「神様、お手柔らかにお願いします。」と思わず言いたくなってしまいます。

けれども、試練を耐え抜いて良しと認められるなら、いのちの冠を受けると御言葉で約束されています。私たちは、共に試練を耐え抜いて良しと認められる者、いのちの冠を頂く者になりたいと願います!

また、私たちの心を「なんで自分ばかり」という不満と嘆きから、恵みに目を留め感謝する心へと変えるだけで、試練の日さえも神との愛の歩みに変わることを経験するでしょう。

苦難の二つ目は、欲によっておびき寄せられた誘惑の末に起こる苦難です。どういうことでしょうか?私たちはどのような種を蒔いたとしても、それには必ず刈り取りが必要となるということを知っています。

誘惑は「それぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて」やってくるとあるように、私たちの内にある欲におびき寄せられて、誘惑はやってきます。そして、私たちがその誘惑に負けてしまう時に私たちは罪に陥り、その結果、罪のゆえの苦難が刈り取りとしてやってきます。厄介なのは、この、「罪の刈り取りへと導く誘惑」です。

誘惑、それは神からのものではなく、私たちの内の罪の性質がおびき寄せるものだと聖書は言っています。私たちは時として、自分が蒔いた悪い種の刈り取り、罪の刈り取りであるにも関わらず、神からの試練かのように「神様、この試練から救って下さい。」と祈ります。

例えですが、ある人が口の言葉を慎まず、人の悪口ばかりを言ってまわり、ふと気付くと周辺の人々が自分に対して悪感情を持っていることに気付きます。それを「迫害に耐えます…」と、まるで神からの試練かのように捉えてしまうならば、自分の罪の性質は一向に変わること無く、なかなか苦しい環境に終わりを見ることが出来ないでしょう。

私たちは今置かれている苦難が、何のゆえなのか、神からの訓練なのか、自分が誘惑に応じてしまったゆえなのか、祈りの中で、御霊によって自分の内を探っていただき、真理を、つまり自分の真の現状を悟らせて頂く必要があります。

自分の現状を悟り、悔い改めるべき部分を悔い改める時に、私たちは悪い種を蒔き続けることに終止符をうち、またそのことのゆえにやって来る刈り取りという名の苦難から、抜け出すことが出来ます。

以前、誰かが「旧約聖書を見たら今日も神様怒っていた。神様は怒ってばかり…」と嘆くのを耳にしたことがあります。御言葉を一部分だけを見るならば、そのように見えるかも知れません。けれども、御言葉を何章も続けて読み、旧約聖書を広い視点で読むならば、むしろ父なる神は「赦してばかり」であることが見えてきます。(今は御言葉を沢山朗読することが私たちの教会の中で呼びかけられていることを感謝します!)

イスラエルの民が主を捨てては、苦難に遭い、悔い改めて主を叫び求めては、主が憐れみを示して下さり…の繰り返しです。私たちの父なる神は、なんと赦しと哀れみに富んだお方でしょうか!

もし、自分の置かれている苦難が、誘惑に応じてしまった結果の苦難であると気付くならば、今日、主に悔い改めて、立ち返りましょう。父なる神は、その叫びを必ず受け入れて下さいます。自分のうちにある、誘惑をおびき寄せる罪の性質を悔い改めて、その罪と戦うことを選択しましょう。

今の苦難が、神からの試練であるならば、朽ちることのない、いのちの冠を主が用意して下さっていることに、お一人おひとりが目を留めることが出来ますように。主はどこまでも、真実なお方です。苦しみの中でも主の真実さに信頼し、主だけを見上げる信仰は、天において高く評価されています。

今日、耐え抜く力を主が与えて下さいますように。その苦難のゆえに流す涙の一つ一つが花嫁の聖なる飾りになると信じます!また、日々の義の訓練によって、あらゆる戦いに勝利することの出来る、青銅の弓をも引くことの出来る力を養うことが出来ると信じます!

「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。」(第2サムエル22:35)

■A:考えてみよう
今、置かれている苦難は、神からの訓練だろうか?自分の蒔いた悪い種の結果だろうか?私の心には神への不満があるだろうか?神への感謝があるだろうか?

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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