■S:今日の聖書の言葉
ヤコブの手紙2章22~24節

★あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

■O:今日のコラム
ヤコブ書の著者は主イエスの弟のヤコブです。ヤコブ書では信仰以上に行いが強調されている為、教会史においてこの書簡は「藁(わら)の書簡」と呼ばれ、価値の無い書簡と見なされ、聖書の聖典からも外される危機に遭いました。しかし主の御手の中で守られ、現在の私たちがこの書簡を読むことが出来る恵みに与っています。

なぜヤコブは、信仰以上に行いを強調して書いているのでしょうか。それは初めに書いたようにヤコブは主イエスの弟として、主イエスが幼い時から、また家庭においてもどの様に生きたかを目撃し、よく知っていたからです。

初代教会における主イエスの呼び名は「ハ・トーラー(その御言葉、The律法)」と呼ばれていました。主イエスは御言葉を教えただけではなく、御言葉の通りに生きた、まさに御言葉なる方だったのです。

弟ヤコブは主イエスがこの地を歩まれた時には主イエスをメシアとしてではなく一人の兄として見、彼のことを信じていませんでした(ヨハネ7章5節参照)。しかし、十字架と復活の後、主イエスは弟ヤコブにもあらわれ、その時彼は主イエスをメシアとして信じ受け入れたのでした。

そして、聖霊を受けた後、幼い時から見てきた全ての主イエスの歩みがまさに御言葉の通りだった。と悟ることが出来たのでしょう。だからこそ、ヤコブは聖徒たちに、ただ信じるだけで終わらず御言葉を行うことの重要性を強調したのでした。

ヤコブは初代教会の中心であったエルサレム教会のリーダーとしての役割を担う人物でした。つまり彼の教えを学ぶことを通して、初代教会の霊性を持つことが出来ます。

初代教会にあった信仰が終わりの時代の教会に回復する必要があります。信仰生活は、教理や神学を学問的に頭の中に入れ、知識だけを持って生きることではなく、実際に信じた御言葉の通りに日々の生活の中で生きることです。

聖書を部分的に抜き出す時、聖書の中に矛盾が生じます。なぜならパウロは「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ2章16節参照)と教えているからです。しかし、ここでパウロが強調しているのは「律法の行い」すなわち割礼を受けたり、食事の規定を守ったり、ユダヤ教の律法を守ることによって義とされるのでは無く、主イエスを信じる信仰によって義とされる。と言っているのです。彼は行いを否定しているわけではありません。

むしろ恵みの福音を宣べ伝えたパウロ自身が、何も行わなかったどころか、自分を主の奴隷と呼び、むち打って自分をキリストに服従させ、福音の為に迫害や困難を耐え抜き、殉教に至るまで主の心に従い通したのでした。

聖書を部分的に抜くのではなく、続けて朗読し、全体を見る時、パウロの言っていることも、ヤコブの言っていることも何の矛盾もありません。聖書には一貫した真理が記されています。信じた者は行うようになり、恵みを受けた者は恵みに応えて生き、真に赦された者は主に従って生きるようになるのです。

知恵と啓示の御霊を日々求めて祈り、霊的な目が開かれ、聖書全体から主の真理を悟ることが出来ますように。日々求めてまいりましょう。

■A:考えてみよう
知恵と啓示の御霊を求めて祈り、ヤコブ書を口にだして朗読しましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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