■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き15章8〜11節
★そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。
■O:今日のコラム
14章の終わりに、アンテオケへと帰ったパウロとバルナバでした。アンテオケにある神の兄弟たちに「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えて者がいることが分かりました。15章において、異邦人が割礼を受けるべきか否かの論争が起こり、ことが決められていきます。そんな論争の中で始めに語ったのがペテロでした。
ペテロがここで語っている「主イエスの恵みによって救われた」という言葉。パウロも別の箇所で「私たちは恵みによって救われた」と語っています。ここで語られている「恵み」とは、主がイスラエル人にも異邦人にも分け隔てなく聖霊を注いでくださったことであり、またイエス様の血潮によって価なしに私たちが買い取られたことを「恵み」と呼んでいます。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8〜9)
この御言葉は非常に有名ですが、私たちはここで、「恵みを履き違える」という罠に陥らないようにしたいと願います。パウロがエペソ2章で語っている「行いによるのではありません。」の「行い」とは、「律法の行い、律法の要求を全うする行い」のことです。
つまり、パウロは「人は律法を完璧に行うことによって義(正しい者)とされ救われるのではなく、神の恵み(十字架の贖い)に、より頼む信仰よって、神の御前に義(正しい者)と認められ救われるのです。」と語りました。
同じように今日の箇所でペテロが主張していた「恵みによって」とは「律法の行いによるのではなく、十字架の贖いによって」ということが含まれています。つまり、ペテロは「律法の要求を全うする行い(ここでは割礼)によって、私たちが救われるのではない。」と主張したのでした。
「神の恵みによって救われた」という御言葉だけを切り取ってしまうと、私たち教会は『御国に入るためには、あとは毎週教会に行き、世の中でも「いい人」で通るような感じで生きていけば大丈夫。なんでも赦される、恵み恵み〜』と思う罠に陥ります。恵みとは、罪を犯しても大丈夫という罪の許可証でもなく、また自分を満足させるものでもありません。このような勘違いこそが、恵みを放縦に変えることを意味します。
「彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」(ユダ4節a)
(ここで「放縦」はNIV訳では「不品行への許可証」と訳されている。)
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。」(マタイ23:25)
(ここの「放縦」は英語ではself-indulgence「自分への甘やかし」、詳訳聖書では「ほしいままのむさぼりの欲」。)
恵みを間違って捉え、神の恵みを履き違えたまま生きていくことは、とても恐ろしいことです。御言葉に出てくる「恵みによって救われる」とは、「律法を全うすることによってではなく」という意味が含まれます。けれども、私たちの信仰には別の「行い」が必要であると、聖書は言っています。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2:14)
「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」(ヤコブ2:17〜18)
ここで語られている「行い」とは、「律法の要求を全うする行い」のことではなく、「神の御心にかなう行い、神にある善を行うこと(人間が良いと思う善ではなく、御言葉が善と言っている善い行い)」をあらわしています。「行いによるのではありません。」と語ったパウロ自身は、こうも語っています。
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)
もし、神の御心を行うこともなく、自分の肉の欲しいまま生きるものは死ぬ、とはっきり語っています。そして、パウロはヘブル12章においては「自分の罪と血を流すまでに戦う」ことについても述べています。また、今日の箇所で「神の恵みによって救われた」と語ったペテロは、第1ペテロの手紙で次のようにも語っています。
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」(第1ペテロ2:11〜12a)
ここで、ペテロも「罪と戦うこと」と「神にある善の行い」について、勧めています。
私たちは、自分の力では自分の罪の代価を支払うことは出来ず、律法の要求を全うすることも自分を義とすることも出来ず、罪の報酬のゆえに死ぬべき者でした。(ローマ6章23節参照)
けれども、イエス様がただ一度、十字架で御自分の命をもって、律法の要求を全うして下さったのです。ですから、私たちは割礼を受けたり、なにか律法の規定を満たすことによるのではなく、神の御子イエス様を信じる信仰によって義なる者とされました。それが「恵みによって救われた」ということです。その十字架の贖いを信じることは信仰生活のスタートであり、ゴールではありません。
恵みによって信仰により救われた私たちがなすべきこと、それは「罪との戦い」であり、また「神の御心を行うこと、神にある善の行い」であることが、これらの御言葉が教えてくれています。
「行いのない信仰は死んでいる」と語ったヤコブはその章の後半で、アブラハムの信仰は、イサクを神に捧げたという「神への従順な行い」を通して目に見えるものとなったと語っています。最後にイエス様ご自身が山上の垂訓でこう語られました。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)
私たちの信仰の歩みにはまだまだ、成すべきことがありそうです。十字架によって贖われた私たちは、悔い改めることを通して罪と戦い、祈りと御言葉によって神の御心を知り、御霊の助けを受けて、その御心を行う者となりたいと願います。
私たちが御言葉に従い、神に従順になり、みことばを実行する者となる時、その信仰は誰の目にも明らかになると信じます!
■A:考えてみよう
私たちが今日受け取るべき「恵み」はなんでしょうか?
それは、以前は罪の奴隷としてしか生きる道がなかった私たち、また肉の欲望の通りにしか生きる道がなかった私たちが、今は神の御心を行うことが出来るという「恵み」であり、神の願いの通りに生きることが出来るという「恵み」です。これは特権であり、恵みであります。
今日の一日も私たち一人ひとりが、御霊の助けにより、罪と戦い、御心を行い、神に従順な歩みをすることができますことを祝福します!!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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