■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記32章26節

★そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。

■O:今日のコラム
この箇所は、金の子牛を造って堕落したイスラエルの民に、モーセが問うところです。「だれでも、主につく者は、私のところに」と。

そもそも、イスラエルの民はなぜ金の子牛を造ったのでしょうか?

「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。『ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。』」(出エジプト32:31)

「自分たちのために金の神を造ったのです。」と書かれてあります。神様のためや、人のためにではなく、自分のために造ったのです。

私たちは、神様よりも愛するものや楽しみはないでしょうか?また、御言葉よりも自分の願い、考えを貫いていないでしょうか?そして、習慣的に犯してしまう罪など、それらは結局のところ自分のためなのです。誰のためでもなく、自分のために金の子牛を造り礼拝しているのです。

罪を犯す動機は、「自分のため」です。クリスチャンでありながら、世の楽しみとの二重生活。生温さや二心。これら全て「自分のため」です。言い訳は出来ません。御言葉に従えない理由は、自分を人生の主人とし、心の王座に自分が座り込んでいるからです。

今、私たちはモーセの問いに応答する必要があります。「だれでも、主につく者は、私のところに」

グレーゾーンはありません。あるのは、主につくのか?それとも主以外につくのか?この2つです。

私には自分のために金の子牛を造ってしまう性質があります。だからこそ毎日、私の主人は誰なのか?私は誰につくのか?奮い立って選ばなければなりません。

主に心の王座を明け渡すことは難しい事です。だからこそ、ひれ伏す祈りをします。私の気持ちがどうであるかは関係ないのです。また誰が見ていようと見ていなくても、主が主であるゆえにひれ伏し、私の肉も主に従わせるため、主の前にひれ伏させます。

もはや自分のために生きることを放棄し、主が私を統治されることを願いとします。

「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(第2コリント5:15)

私たちは、神様を恐れる必要があります。神様は愛なるお方である一方、さばきの主でもあります。主はあわれみによって、私たちに悔い改める時間を与えてくださっています。

今という時に、悔い改めて救いの達成に歩みましょう!!

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」(第1ペテロ4:17~18)

■A:考えてみよう
・自分にとっての金の子牛はなんだろうか?
・主につくのか?それとも主以外につくのか?

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 おりえ 】

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