■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記21章5~6節
★しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。
■O:今日のコラム
柱という語には冠詞が付いています。つまりTHE柱。それは十字架のことを指しています。そこにしもべが刺し通されるとき、しもべは永遠に主人の家で仕えることができるのです。
私たちが十字架に付くタイミングは二つあると思います。
(1)悔い改め
悔い改めるとき、自分の肉の性質はイエス様の十字架にともにつけられて処罰されていきます。主を恐れるがゆえに、また主を敬愛するがゆえに自分の肉の性質に気づくなら、それをすぐに捨てることを学ぶことは重要なことです。
私たちは、イエス様を王としてこの地にお迎えしようとしています。イスラエルにおいて王の役目は、民をさばくことです。さばき主なる方が今日来られても、大丈夫でしょうか?主の前に告白していない罪を抱えていながら、主を王としてお迎えすることは深刻な事です。
「主を恐れるとは、悪を離れることである」と箴言にあります。主を恐れかしこみ、待ち望む者であり続けましょう。
(2)自分の十字架を全うするとき
私たちは自分の肉を捨てるだけでなく、自分の十字架を負って、イエス様にどこまでもついていく者でありたいです。父の御心を行い、それを成し遂げることは、祈りの中だけでは完結しません。多くの場合、実際に行動し、自分の体を捧げなければ成し遂げることはできないでしょう。
その時に義のゆえの迫害を味わうことになるでしょうが、喜び踊るべきです。天において報いが大きいからです。生涯かけて全うする使命もあれば、日々成し遂げる小さな使命もあるでしょう。そのときに私たちは十字架を示されるのです。
これは主を敬愛するがゆえに、人々を愛し、自分を捧げる行為なのです。愛には犠牲がともなうものです。
そしてこの二つを自分が望む理由は、主を愛し、隣人を愛するがゆえなのです。しもべは「主人と妻と子どもたちを愛する」がゆえに、THE柱に刺し通されることを受け入れたのです。愛が動機でなければ、自分を犠牲にしても何の役にも立ちません。
特に自分の十字架を成し遂げるときに、体が引き裂かれるかのような状況もあるのです。そのときにそれを乗り越えていく原動力は、主が注いでくださっている愛なのです。
■A:考えてみよう
愛ゆえに、悔い改め、自分の使命を全うしていきましょう。
愛は自分を建て上げ、また人をも建て上げ、勝利の旗印となることを信じましょう。
■P:祈り
主よ。あなたの愛に感謝します。あなたの愛は勝利の旗印です。あなたの愛は、私を建て上げ、私の周りの人々を建て上げます。あなたに近づくために、私の肉を十字架につけたいです。そのために私はどうしたら良いのでしょうか?何を差し出したら良いのでしょうか?教えてください。
また、あなたの仰せに従ってそれを成し遂げることができるようにさせてください。あなたの御心が、私と私の周りになりますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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