■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記14章21~22節
★そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
■O:今日のコラム
出エジプト記のなかで、イスラエルの民がエジプトを後にして出発した出来事が「出エジプト」である、と考えられるかも知れません。もちろん、そうでしょう。
けれども、今日のこの箇所、イスラエルの民が紅海を渡ったこの出来事こそが「出エジプト」を確かなものにした出来事だったのではないかと感じます。
はじめにエジプトを追い立てられるように出てきた段階では、イスラエルの民にも、引き返す余地はあったでしょう。けれども、この紅海を渡ることはエジプトとの決別を確かなものにする非常に大きな出来事でした。彼らの中にも「もう引き返せない。もう引き返さない。」という強い決心と覚悟が必要だったでしょう。
私たちはイエス様を信じ受け入れ、イエス様を自分の救い主、主と告白し、またその決心の表れとして洗礼を受けました(まだの方は、主の時にその決心へと導かれることを祝福します!)
私たちもイスラエルの民と同様にエジプトに決別した者であり、サタンの支配の元に生きる生活、罪の奴隷生活に決別した者であることを思い起こさなければなりません。
イスラエルの民が過ごした荒野での40年間、民があまりにも不平ばかりを言うので、神の恵みが少ない場所のような印象がありますが、その正反対です。主は彼らを豊かに守り導かれ、養ってくださり、40年間、その着ていた服も靴もすり切れることさえ無かったと書かれています。
「あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、 その足のくつもすり切れなかった。」(申命記29:5b)
海を渡った後の荒野での生活。それはイスラエルの民にとって、奴隷生活から自由にはなったものの、神からの訓練を受ける辛い日々だったかも知れません。けれども、荒野の中で、イスラエルは律法が与えられ、契約が与えられ、幕屋が与えられ、神の民ととして確立されていきました。
同じように、私たちも神の奴隷、義の奴隷となり、荒野の中を歩む日々は、時には訓練の日々かも知れません。けれども、私たちにとってこの荒野の道のりは、神のことば、御霊与えるレーマであるマナを日々受け取り、神との永遠の契約の中に入れられ、主と親しく交わる恵みが与えられ、いよいよ神の民として確立されていく恵みの日々であります。
私たちが歩むこの日々は、乾いて何もないように思える時もあるかも知れませんが、主はこの道程で私たちを豊かに導いて下さり、私たちの着物も靴もすり切れることはありません。
イスラエルの民のように、無い物にばかり目を留めて、不平をいうことがないようにしたいと願います。神の奇跡の中を歩んでいる恵みを見失うことがないように、罪の奴隷生活を振り返って恋い慕うことがないようにしたいと願います。
■A:考えてみよう
私たちは海をもう渡りました!今日、もう一度、紅海を渡った時のイスラエルの民の決心と同じ決心をしようではありませんか。
「もう引き返せない!もう引き返さない!」
私たちの生活の中で、まだ罪の支配、暗闇が支配している部分があるでしょうか?まだ、罪の奴隷生活の領域があるでしょうか?
罪には2つの種類があります。
「神が『してはならない』と言われたことを犯す罪」と、「神が『こうせよ』と命じられたことを行わない罪」とがあります。多くの者は、1つ目の罪に注目しますが、2つめの罪を見落としがちです。
主は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ。」と命じられました。この神の命令を無視することは出来ません。私たちは、あらゆる罪を避け、日々悔い改めると同時に、この神の命じられた戒めを守り行う者となっていきましょう。
「私にはそんな生活、無理。」と放り出す前に思い出してください。私たちには助け手として、御霊が与えられています。へりくだってその助けを求める者に、惜しみない助けを与えてくださることと信じます!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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