■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記9章20~21節
★パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。
■O:今日のコラム
パロの家臣のうちに、主のことばを恐れた者たちがいたことをご存知だったでしょうか。
私は最近チャレンジを受けて聖書を多読する中で、今まで何度も聖書を読んでいたはずなのに「こんな箇所があったんだ!」と気付かされることが多く、聖書を多読する恵み、喜びを味わっています。
今日の箇所は、「わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。」という主のことばに従わなかったパロと、その民全体のうちに、次々と災いが下る場面です。
パロは数々の災いを見ても、その心はかたくなでした。この心のかたくなさはどこからきているのでしょうか。それは「高ぶり」です。(出エジプト記9章17節参照)
パロは災いのさなかで「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。」(出エジプト記9:27)と言いますが、災いがやむと、その心はすぐにかたくなになりました。なぜでしょう。それは、主のことばを恐れなかったので、高ぶりがすぐにやってくるのです。
私たちも同じではないでしょうか。高ぶりという性質が、私たちの内に何度もやってくる時、私たちは主のことばを本当に恐れているか、もう一度吟味する必要があります。
パロの家臣のうちには、主のことばを恐れたゆえに、主のことばに従った者もいました。それゆえに災いを免れたのです。大切なのは主のことばを恐れるか、恐れないか、それゆえに主のことばに従うか、従わないか、です。
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」(詩篇34:7)
主のことばを恐れるということは、主のことばに従うことであり、主ご自身を恐れる歩みです。それは、何か状況が起きた時ではなく、日々の生活の中で私たちがする選択であり、決断です。
私は今月から1人になる時間が増えたのですが、人が見ていない時、隠れている時にこそ、私は主を恐れる歩みをしているだろうか、主のことばに従っているだろうか、自分自身の内側を、生活を点検する必要があることを思わされます。
パロは数々の災いを見ても、その心は高ぶったままでした。また、イスラエルの民も、こののち数々の奇跡、しるしを見たのにも関わらず、その心は高ぶっていきました。
私たちは、パロやイスラエルの民のような心のかたくなさ、高ぶりを捨てましょう。そのような性質が自分の心のうちにやってくる時、主のことばを恐れるその表れとして、御言葉を朗読して、ひれ伏し祈る時間を持っていきましょう。
主は正しいお方、義なるお方です。主のさばきは、主を恐れない者、主のことばに従わない者にとっては恐ろしいものですが、主を恐れる者にとっては恵みと祝福であることを覚え、今日も主のことばを心に留めて、従う者となっていきたいと願います。
「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。」(詩篇103:17~18)
■A:考えてみよう
・私は主のことばを恐れているだろうか。人に見えるところ、見えないところ、私の言葉、態度、行いは、主のことばに本当に従っているだろうか。
・私たちの心のかたくなさ、高ぶりが取り去られ、柔らかい心、砕かれた心、へりくだった心が与えられるように祈りましょう。
毎日、イエス様の血潮の力が必要です。私たちの心に、イエス様の血潮、御言葉を朗読して、ひれ伏し祈る時間を持っていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ささまな 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。