■S:今日の聖書の言葉
ピレモンへの手紙11節

★彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、 役に立つ者となっています。

■O:今日のコラム
ピレモンへの手紙はパウロからピレモンに宛てられた短い書簡です。この書簡を読んでいくと、「この書簡は必要だったのかな?」と思えるほど、あっさりと終わってしまいます。しかし、この中に大切な真理があります。

このピレモンへの手紙から、初代教会の信仰の姿を見ることができます。

(1)家庭礼拝
2節の後半には「あなたの家にある教会へ」と書かれています。これは、「あなたの家で集まっている教会、集会」という意味です。初代教会の時代は、会堂に集まることもしていましたが、主に家庭での礼拝が中心だったことがうかがい知れます。

初代教会の中心は家庭礼拝でした。父親がその父親から受けた学びに加えてさらにみことばを深く研究し、それを家族の中で特に子どもたちに伝えていくのです。だから、彼らは迫害にあって教会が奪われたとしても、家族の食事の中で、またあらゆる時にいつもみことばを中心とした会話が行われていたので、信仰まで奪われることはありませんでした。

この信仰に見習おうではありませんか。家族の会話の中心が世の中のエンターテイメントや噂話から、みことばを中心とした会話に変えられていくことを祈り求めます。

(2)仕事が礼拝になる
6節には「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行いをよく知ることによって、 あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」とあります。これは「あなたの信仰を共にすることによって、私たちがキリスト・イエスと一体になることによって、私たちのものであるキリストの栄光のためになるあらゆる良い行いをよく知ることによって…」という意味です。

キリストと一体になるということは、神のことばと一体になるということです。その事を初代教会の中で、仕事をしながら信仰を持っている人々から学ぶことができます。

初代教会の時代の人々も私たちと同じ人間なので、日々の生活の中でエンターテイメントを求めていました。しかし、彼らの生活を調べていくと、彼らが何に楽しみを見出していたかを学ぶことができました。

初代教会の人々、特に仕事を持っている人の一日は、朝の仕事前に教会に行き、みことばの朗読に耳を傾け、ひれ伏す祈りから始まるそうです。そして、その時に心に残ったみことば1節をもって、仕事をしながら何度も何度もそのみことばを思い返し、黙想するのです。

手工業が盛んだったようなので、その仕事に従事している人も多く、彼らは手を動かしながらも朝、心に語られたみことばを大切に慈しむように何度も思い巡らしながら仕事をしていたのです。そして、仕事を終えると体を洗い、服を着替えてまた教会に行って礼拝するのです。これが初代教会の人々の何よりの楽しみだったそうです。

これこそ仕事が礼拝になる秘訣です。もちろん、仕事を疎かにしてはいけません。むしろ、全力で仕事に取り組むべきです。しかし、その中においてもみことばの剣を握り続けていくなら、仕事が礼拝になります。

このような生活をしていくなら、「自分の生きていくため」の仕事から、「神の御国の建設のため」の仕事にシフトしていきます。

ピリピ2章12節の後半には「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とあります。「私は仕事をしているから、祈りは牧師にまかせよう」と思ってはなりません。もちろん、牧師や霊的なリーダーは皆さんのために日夜とりなして祈ってくれていると思います。しかし、それはあくまでもサポート的なものとなります。

例えば馬に乗ってレースをするのでも、いくら騎手が目の前に人参をぶら下げたり、ムチで馬を叩いたとしても、馬自身が走らなければレースを走り切ることはできません。

イエス様と顔と顔を合わせて出会った時、そこで弁護してくださるのは牧師でもなく、親でもなく、イエス様だけです。この方とどれほど深い関係を持っているかが大切です。

初代教会の人々から学びましょう。もちろん、朝教会に来られるのであればそれに越したことはありませんが、多くの人は困難を覚えると思います。しかし、朝の時間を礼拝に捧げることは出来ます。私も本当に忙しい毎日を過ごしていますが、その中でもミニストリー以外で一日の十分の一の時間、2時間40分を神に捧げることを自分にチャレンジし、その大きな恵みに預かっています。

皆様の仕事が礼拝の領域にまで高められていきますように。

(3)信仰継承
そして、なによりも大切なのが信仰継承です。私たちも初代教会から始まった信仰が、信仰の先輩方から継承されて私たちに至っています。それを自分たちの代で終わらせてしまってはいけません!自分たちだけ良い思いをして、次世代のことを考えないというのは異なった福音であり、聖書でそのような事はどこにも見ることが出来ません。イエス様も大宣教命令で弟子を作ることを命令されています。

オネシモはパウロによって福音が伝えられ、訓練され、ピレモンに託されました。パウロは奴隷であったオネシモを我が子のようにみことばによって教え、育て、役に立たない者から役に立つものへと育てました。

そこには先々週のマタイの福音書28章のマナメールの記事でも触れた弟子への「教え」と「伝授」が実践されていました。パウロ自身がみことばを深く学び、みことばに自分を従わせる生き方を弟子に示して、生き方を通して弟子訓練をしていました。役に立たなかった奴隷であったオネシモを役立つものへと教え、訓練したパウロは本当にすごい教師です。

イエス様も十二弟子に信仰を継承するのに特別な訓練プログラムを用意していたわけではありません。イエス様は弟子たちをそばに置いていました。それがイエス様の弟子訓練です。

「そこでイエスは十二弟子を任命された。 それは、 彼らを身近に置き、 また彼らを遣わして福音を宣べさせ、」(マルコ3:14)

イエス様こそ生きたトーラーと呼ばれたみことばその者のお方です。このお方の肉体を私たちは見ることは出来ませんが、実態は見ることができます。皆さんが持っておられる聖書、その中の一文字一文字がイエス様そのものです。

私たちはどこまでも自分を捨て、イエス様のみことばに従って生きていきましょう。その姿を見て、益々主を愛する次世代が立ち上がることを切に願います。私たちが到達したところが次世代の足台となり、彼らが私たちの届かない領域にまで御国を拡大してくことができますように。

■A:考えてみよう
私はみことばに生きているだろうか。一日の中で神様の事をどれほど思い巡らしているだろうか。

ある人との会話で「みことばを朗読し、ひれ伏す喜びを知った今は、今まで興味があったこの世のものが本当に色あせて見える」と言っていました。本来、みことばは私たちの中で大きな楽しみとなり、喜びとなるはずです。みことばは神様ご自身ですから。

では、なぜみことばが喜びにならないのでしょうか。それはこの世の君であるサタンが私たちの不従順を足場として働きかけ、みことばの喜び、真理を見えないようにさせているからです。

「イエスの血潮を宣言する祈り」の1番、「イエス様の血潮はサタンの支配から私を贖いました」と何度も宣言し、みことばをたくさん読み、ひれ伏し、祈り、一日中みことばがあふれるという最上の喜びの生活に導かれていきますように。

■P:祈り
愛する天のお父さん、塵にすぎない被造物である私たちに神のことばを与えてくださっていることを心から感謝します。私たちの生きる意味、問題解決、すべての答えがこのみことばの中にあります。
しかし私たちは覆いがかけられ、この真理が見えなくなっていました。答えが目の前にあるにも関わらず、そのことに気づきませんでした。それなのに、まるで神様が私を助けてくれず、見放されたかのように思っていた愚かな私を赦してください。
主よ!みことばの喜びを教えてください。みことばと共に生きる者とさせてください。そしてまず私たちがみことばを聞く耳を与えられ、みことばを実行する人になり、みことばに生きる人にさせてください。
そして、私を役に立たないしもべから、あなたの役に立つしもべへとみことばによって造り変えてください。その生き方を通して、次世代に信仰のバトンを渡していくことができますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

カテゴリー: マナメール

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