■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙13章14~15節

★私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

■O:今日のコラム
人は生きていく上で、たくさんの願いや必要を持つと思います。以前メッセージで、私たちは学校、受験の悩みがあり、終わったと思ったら就職、結婚、家を買うこと、子供のこと…と、次々必要が満たされてはまた次のものを求めてしまう者だということを聞きました。

満たされても尚も求めるということは、目先のものではなく本当の願い求めが他にあるということではないでしょうか。

私たちの心は、私たちを造られた方でしか満たせないように造られているのです。神様によって造られた私たちは、今日の箇所にあるように、地上のものでなく、神様で満たされ、天の都を待ち望むように創造されたということです。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第2コリント4:18)

「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」(ローマ8:24b)

世のはじめからおられ、2000年前に人の子として来られた主が、聖書の終わりの黙示録に書かれているように確かにまた来られ、主は私たちを完成へと導いてくださり、私たちを花婿なる方と共に住まわせてくださるのです。これこそ、漠然とした望みではなく、聖書をもって示してくださった望み、希望ではないでしょうか。

自分の心にある望みではなく、神にかかっている、神が約束してくださっている望みに信頼することにまさる確かな望みは他にはありません。私たちの信仰と希望は神にかかっているのです。

では、それを待ち望む、完成へのプロセスへと向かう私たちはどのように歩むべきでしょうか。

今日の箇所にあるように御名をたたえるくちびるの果実を神に捧げて歩むのです。この箇所には「聖日礼拝の賛美の時間だけ捧げる」とは書いていません。「絶えず捧げて歩むこと」が記されています。

これは生活の中で毎日主を見上げ主に礼拝するということですから、礼拝者としての生き方をもって歩むということではないでしょうか。

礼拝というと何か華やかなものをイメージしやすい私ですが、反対です。絶えず主の前にひれ伏し自分に死ななければ真の礼拝は捧げられないのです。しかし、その毎日が神様の目にとっては麗しい至聖所となるのではないでしょうか。

聖書の詩篇は、賛美という意味があることを聞いたことがありますが、ダビデは現実に目を奪われそうになる中でも主を見上げ、主への賛美を捧げています。その人生が絶えず主への賛美で満ち溢れていたことを朗読する中で学ぶことができます。

♪歌いつつ歩まんハレルヤハレルヤ 歌いつつ歩まんこの世の旅路を という賛美をご存知でしょうか。賛美する度に大きな励ましを受けます。

私たちも、いつも主の前にひれ伏し、自我を捧げて、歌いつつ賛美しつつ、やがて来られる方を求めて歩んでまいりましょう!この歩みと人生が歌となり主に捧げられる果実となりますように!

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:1~2)

■A:考えてみよう
・この心がこの世のものでなく、見えるものでなく、神様で満たされ、神様を待ち望む者へと造り変えられていくように祈り求めていきましょう。

・礼拝者として歩めているか、自分自身を振り返ってみましょう。今日も主の前にひれ伏し、主を恐れ、自分の口をもって賛美の果実を神様へ捧げていきましょう。

■P:祈り

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ゆうこ 】

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