■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙7章25節
★したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
■O:今日のコラム
この章で、パウロは永遠の大祭司の務めをなされるイエス様のことについて語っています。
律法によって立てられた人間の祭司には限界があり、律法によっては解決することが出来なかった神と人との間にある罪の隔ての壁を、永遠の大祭司なるイエス様がただ一度の捧げ物となって、打ち壊してくださいました(エペソ2:14~16参照)。
ヘブル書はモーセの幕屋の存在から多くを語っているので、モーセの幕屋の構造やその礼拝規定をある程度、理解するとこの書簡で語られていることをより理解することが出来ると思いますので、是非、出エジプト記25章以降、レビ記をよく読んでみて頂けたらと思います。
今日の箇所で書かれている「完全な救い」もしくは「永遠の救い」を受けたいと願われるでしょうか?そのための条件を今日は見てみましょう。
モーセの幕屋において、神と顔と顔を合わせることの出来る至聖所へと入ることが出来たのは大祭司だけであり、しかも、それは年に一度だけでした。詩篇15篇1~2節には、
「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。」
と書かれています。至聖所に誰が入ることが出来ると語っているでしょうか?ここにある「正しく歩み」の「正しい」とは、「完全な、非の無い、罪の無い、潔白な」という意味があります。この時点で、まず自分は、至聖所に入ることは不可能だとがっくりします。
けれども、イエス様のただ一度流された血潮によってのみ、私たちは正しい者とみなされ、義とされます。(このことを私たちは、日々、簡単に口にするかも知れませんが、どれほどに大きい恵みでしょうか?そのことを今日も思い起こし、新しい感動をもって主に感謝しましょう!!)
今日の箇所で書かれている「完全に救われる者」とは「主によって神に近づく人々」のことです。
私たちは日々、神に近づきたい、その御顔を仰ぎ見たいと願って過ごしているでしょうか?主を知ることよりも、自分の生活が安定し、潤うことに関心があるでしょうか?問題が解決することの方が先決でしょうか?自分の成功や祝福されることの方が優先順位が上でしょうか?
神に近づきたいと願い、その至聖所に入ろうと願うなら、必ずぶつかる壁があります。至聖所に入ることを妨げる自分の罪の存在です。光に近づけば近づくほど、今まで平気だった心の内の汚れが明るみに出され、みことばに従っていない自分に気付かされるのです。自分の力だけでは到底、どうすることも出来ない罪を見せられるのです。
「それなら、神に近づこうとしない方が楽じゃないか。」そう思われるかも知れません。そうです。「困ったときの神頼み」信仰生活は楽でしょう。けれども、ここには、神は「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」とあるのです。
神に近づく時に初めて気付かされる自分の罪ですが、それと同時に、だからこそイエス様の血潮が必要であるということを悟るのです。自分の罪に気付く時、どうしようもない自分を知り、悔い改める時に初めて、自分には絶対的に神により頼まなくてはならないということを知るのです。神無くしては一歩も前に進めないという飢え乾きを持つようになります。
そのような、心の貧しさを持つ者を、主は「幸いな者」と呼んでおられます。
「心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)
主は私たちの神の毛の数すらご存じです。私たちは神をどれほどに知っているでしょうか?新しい今日という日に、昨日より一歩、神に近づくことを選びましょう。神を知ることを選びましょう。
■A:考えてみよう
神を知る、とはどういうことでしょうか?近所の人を知っている、顔見知り、聞いたことがある、というレベルの「知る」ではありません。それは「人は(アダムは)、その妻エバを知った」(創世記4:1)とあるような親密な「知る」です。一体となるということです。神御自身である御言葉を知ること、御言葉と一体となること、御言葉の通りに生き方が変わること、それが「神を知る」ということです。
今日、みことばを更に愛しましょう。また、御言葉の通りに生きることが出来るよう、御言葉と一体となることが出来るよう、御霊の助けを祈り求めていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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