■S:今日の聖書の言葉
ヘブル人への手紙4章1節

★こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

■O:今日のコラム
信仰の歩みは聞き従う歩みです。これは主を恐れ敬う歩みと言い換えることができます。

私たちは、イエス様をよみがえりの主として自分の心の王座にお迎えすることによって救いに入りました。教会に来るきっかけががどうあろうと、教会にどれだけ長く来ていようと、救いの入り口はそのタイミングなのです。救いの入り口はこの御言葉です。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9~10)

主を主人としてお迎えして救いに入ったとしても、主に対する恐れと敬愛を失ってしまうなら、救いそのものを失うことになります。それは信仰を失うことだからです。イエス様が郷里に帰られたときの記事にこうあります。

「イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。」(マルコ6:4~6)

主は郷里の人々の不信仰を嘆かれました。それを「預言者が尊敬されないのは」と表現されました。神に対しては「恐れ敬い」と言いますが、人に同じ表現がふさわしくないので「尊敬」と表現します。

私たちは神を恐れる心と敬う心を持っているでしょうか。神に対する恐れは私たちを悪から離れさせ守ります。私たちの地上の父母は、私たちを愛し、養ってくれましたが、私たちが親に対して悪を行う時には、叱り、懲罰を与え、怖い存在であったと思います。それは、天の父にも言えることです。天の父に対する恐れは私たちを守ってくれるのです。

私たちが自分の悪を告白し、赦してもらう時、親に対して湧いてくる感情は、恐怖ではなく、敬愛です。私たちは地上にいる限り、罪がないというなら偽り者になってしまいますから、恐れを持ち続けることは健全なことなのです。

そしてそこに、敬愛し敬拝する心が増し加わっていきますように。ヘブル語で「恐れ」という語はヤーラーですが、この語には恐れ、恐怖、という意味とともに敬愛、敬拝という意味があります。この両方を持つことは大切なことです。神に対する恐れと敬愛に生きることは、信仰の歩みそのものなのです。聖書は、敬愛するがゆえに従うことができると語っています。

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。」(エペソ6:1~2)

ここでも尊敬することと従うことはイコールであると言っています。神を恐れ、敬愛する心を大切にしましょう。

■A:考えてみよう
神を恐れ、敬愛するために具体的な行動として、主の御前にひれ伏して礼拝する時間を持ちましょう。

心と思いを尽くすだけでなく力を尽くして神を愛するのです。自分の体をきよい備えものとして捧げることは霊的な礼拝(原語では、理にかなった礼拝)なのです。

三度ひれ伏し、「あなたは、私の霊の贖い主である神です」「あなたはたましいの救い主である主です」(そして自分のからだにあって)「あなたは私の王です」と主を礼拝しましょう。

■P:祈り
我が神、あなたの御名を恐れます。またあなたの御名を愛します。神を恐れること、敬愛することを学ばせてください。私の神、私の主、私の王の御前にひれ伏し敬拝します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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