■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書26章26節

★また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

■O:今日のコラム
イエス様は、十字架の前夜、パンと杯がご自身のからだと血を意味するものであると解き明かされました。そして、「(パンを)食べなさい」、「(杯を)飲みなさい」、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」(ルカ22:20)と弟子たちに命じられます。

多くの教会では、定期的に聖餐式を持たれていることと思います。私の集う教会でも、毎月の第1週目の日曜礼拝で神の家族の皆さんとともに聖餐式を行います。

イエス様と弟子たちが過越の食事をする今日の箇所は、「最後の晩餐」と呼ばれていますが、それは「最初の聖餐」でもありました。

過越の食事にはある一定の手順が存在します。パンと杯は食事の流れの中で、弟子たちに配られたものでした。

以前過越の祭りの時期に、教会の兄弟姉妹が実際にユダヤ人に伝わる過越の食事の手順で交わりをされ、その手順や食材の一つ一つにイエスキリストを表す重要な意味が隠されているということを味わい体験されたということを証しされていました。

その順序等は割愛しますが、重要なことは、「交わり」の中において、聖餐が組み込まれているということだと受け取ります。

初代教会の歩みにおいても、「家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」(使徒2:46)とあるように、食事と聖餐がセットで記述されています。

限られた時間でより多くの方がパンと杯にあずかれるように、現代では聖餐式が確かに儀式化してしまっていると捉えられても不思議ではない側面も否定できないことですが、その本質は聖餐を意味するギリシャ語「コイノニア=交わり」からも理解できるように、本来はイエスキリストご自身との交わりであり、また聖徒たちがキリストにあって一つ心とされるものなのです。

私自身は、毎月の教会での聖餐式とともに、毎週自宅で家庭礼拝を捧げる時、食事の後に聖餐式を持っています。家族で、罪の赦しを受けるため、心を吟味し、十字架の御前にへりくだり行く時、お互いに対して抱いていた不平不満や、憤り、悪感情等を明け渡すことへと導かれ、もう一度イエス様の血潮によって家族が覆われ結び合わされるという大いなる恵みをいただいています。

教会での聖餐式も本当に毎回恵みが大きく、イエス様の十字架を聖徒の皆さんと共に覚えることのできる時は私にとって欠かせない信仰の歩みです。それと同時に、家族単位で聖餐にあずかることも、家族がいつもイエス様の十字架に信頼し、愛し合い赦し合う機会として不可欠なものとなりました。

集われる教会において聖餐に対する見解が異なることもあると思いますので、それぞれの立場や伝統を尊重しつつ、導かれる方は個人的に、または家庭で、(ときには食事も一緒に)聖餐の交わりを持たれてみてはいかがでしょうか。

私たちがこの交わりを喜ぶ以上に、私たちを心待ちにしてくださっている方、それはイエス様ご自身です。十字架で受ける死の苦しみを目前にしてもなお、パンと杯を祝福し感謝をもって弟子たちに与えてくださった主イエス。その同じ恵みを私たちにも注いでくださる恵み深いお方をほめたたえます。

「イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(ルカ22:15)

■A:考えてみよう
・過越とはどのような意味ですか。(出エジプト12:1~30等)
・イエス様、聖徒、家族と結び合わされていくために、聖餐式はどのような役割を果たしますか。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ぺい 】

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