■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書23章12節
★だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
■O:今日のコラム
シャバットシャローム!主の安息がありますように。
自分を低くすることは聖書によく出てきます。なぜならば主が嫌う者は高慢な者であると言われているからです。聖書の人物で自分を高めず低める者は、この地上でも主に祝福されていたのではないでしょうか?アブラハムやモーセ、ダビデの人生を見るとよくわかります。
ところでですが、私は最近、感情的に悲しく辛いところを通りました。自分の願いや思い描いてきたことがその通りにならなかったのです。
みなさんだったらどうしますか?自分の意見、夢や選択肢がかなわない状況というところは、少なかれ誰もが通っていることではないでしょうか?そのような時にどのような気持ちで乗り越えるのでしょう?
私はこのような時に、大抵この御言葉を思い出します。「主がちょうど良い時に高くしてくださる」(第1ペテロ5:6参照)今日のみことばと似ています。つまりは神の下にへりくだる、低くなる時にもっと良いもの、良いところに上げてくださるということです。
私はこれが御言葉の意味であると思っていました。しかし、そうではない!ということを新しく語られたのです。もちろん自分の願いが神様の願いと違っていれば、かなえられないのは当然のことなので、主に立ち返って身を低くするのは当然でしょう。
しかし、それが本当の低くなること、へりくだることなのでしょうか?
アブラハムやモーセやダビデは自分の願いがかなえられなかったら、主の元にへりくだるという気持ちで生きていたのでしょうか?そうであるならば、いつも神様の願いと思いに敵対して歩んでいなければ、へりくだることを学びません。
そうではありません!!低くなるとは自分の願いや思いに死ぬとき、御言葉の岩という高い道に上げてくださるということなのです。
いつでも人間は自己中心な考えを持つものです。「低くしていれば丁度良いときに、主が高めてくれるよ。」高められることの中心さえも自分という願いや計画、自分の評価や評判、高くなることに重きが向いているのではないでしょうか。
高めてくださるとは御言葉の上を歩めるようになること。低くなるとは御言葉の元で教えられること。主の言葉の通りに生きられるとはなんと高い道なのでしょうか。主の言葉を知ることができるとはなんと幸いな道なのでしょうか。
へりくだってきたと思って生きてきた私の肉的な考えが暴かれたことを、神様に心から感謝しています。御言葉を読むという中で教えられたことで実際的に感情にも平安を与えられました。
へりくだりの極みなる方、イエス様。御言葉なる方。
御言葉を読むことの大切さ、御言葉を愛することの大切さを教えてくださった聖霊様に感謝しています。
■A:考えてみよう
本当に主の言葉の上を歩きたいですか?
御言葉が私に足りているでしょうか?
岩なる御言葉が私の中にあるのでしょうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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