■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書21章28~31節

★ところで、 あなたがたは、 どう思いますか。
ある人にふたりの息子がいた。 その人は兄のところに来て、 『きょう、 ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
兄は答えて『行きます。 お父さん』と言ったが、 行かなかった。
それから、 弟のところに来て、 同じように言った。 ところが、 弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、 あとから悪かったと思って出かけて行った。
ふたりのうちどちらが、 父の願ったとおりにしたのでしょう。 」彼らは言った。 「あとの者です。 」イエスは彼らに言われた。 「まことに、 あなたがたに告げます。 取税人や遊女たちのほうが、 あなたがたより先に神の国に入っているのです。
というのは、 あなたがたは、 ヨハネが義の道を持って来たのに、 彼を信じなかった。 しかし、 取税人や遊女たちは彼を信じたからです。 しかもあなたがたは、 それを見ながら、 あとになって悔いることもせず、 彼を信じなかったのです。

■O:今日のコラム
たとえ話の中で、最初は「行きたくない」と言ったが、「あとから悪かった」と思ってぶどう園に働きに出ていった弟の方が、父の願った通りをした者だ、とイエス様は語られました。

この「あとから悪かったと思う」とは原語で見ると「悔い改め」と書かれています。

初めは不従順であったけれど、そんな自分を悔い改め、父の仰せに立ち返ったこの弟が、父の心に叶う者だとイエス様は言われました。

次のくだりでイエス様の語られた「取税人」は、脚注によるとルカの福音書で以下の箇所に出てきます。

「取税人たちも、 バプテスマを受けに出て来て、 言った。『先生。 私たちはどうすればよいのでしょう。』 」(ルカ3:12)

ヨハネのバプテスマを受けにやって来た取税人たちは、上記のようにヨハネに尋ねました。これは自分の罪を知った取税人たちが、自分の罪に絶望し「悔い改めの実を結ぶために自分はどうしたら良いのでしょうか?!どうやって自分の生き方を改めるべきでしょうか?!私はいったいどうしたら良いのでしょうか?!」と問うた悲痛の訴えなのです。他の箇所ではこの取税人のことが次のように記されています。

「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、 取税人たちさえ、 ヨハネのバプテスマを受けて、 神の正しいことを認めたのです。」(ルカ7:29)

この「神の正しいことを認めた」とは、つまり、「自分が間違っていたと認めた」ということを意味します。

最後に、ここで語られている「遊女」とは、イエス様の御足を涙で濡らし、髪でぬぐったマリアのことを指して、語られました(ルカ7:37~50)。

ここでマリアの流した涙の中には「私は罪深い女です。こんなに罪にまみれた者を赦し、救い出してくださったことを感謝します。。。」という、悔い改めと感謝が込められていたのではないかと感じます。マリアは不信者から見ても、汚れた生き方をする者だったかも知れません。けれども、その罪を悔い改め、また、それをきよめることが出来る唯一のお方にすがる彼女の心を見て、主は彼女を尊んでくださいました。

イエス様はここで、祭司長や民の長老たちに向かって「あなたがたは、ヨハネを信じなかった」と言われました。彼らがヨハネを信じなかった、とは、彼らがヨハネの語ったことを受け入れなかった、ということです。ヨハネは何と語ったでしょうか?ヨハネは、

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)

と語りました。
自分の内にこのたとえ話の長男のような性質はないでしょうか。「捧げます」「みことばに生きていきます」「愛します」と賛美し、告白しながらも、自分の生き方がそのようになっていない部分はないでしょうか?

私はそのような所ばかりです。賛美し、告白し、御言葉を読み、信じていながらも、その歌う通りに、告白している通りに、御言葉の通りに、信じている通りに生きていない自分を見る時に、悔し涙がでます。このギャップをどうやったら埋められるのだろう、いつになったら自分は変われるのだろうと絶望の涙がでます。

けれども、イエス様が十字架で成してくださった御業、愛の偉業を見上げる時に、そこにだけ希望があります。血潮の力によりすがり、より頼むばかりです。

始めは「行きたくない」と不従順で自分のやりたいことを優先していた不完全な弟が、自己中心の自分を悔い改めて、父に立ち返り、父の仰せの通りに行った時、主は「この者が父の願った通りにした者だ」と呼んでくださいました。

「自分は正しい」と信じて、見える所だけ敬虔に生きていた者でなく、「こんな罪人の私はどうしたらいいのでしょうか?!」と自分の罪に絶望し、悲痛に叫ぶ取税人が先に神の御国に入ると主は言われました。

どれだけの罪が赦されたのかを知り、そんな自分をきよめることの出来るお方にすがる遊女が先に神の御国に入ると、主は言われました。この「先に」御国に入るとは、引き挙げられる者のことを示しておられるのではないだろうか、と感じます。

悔い改めの実とは、生き方が変わる時に見ることが出来ます。私たちは自分の罪を悟り、「悔い改めた」と言うのであれば、生き方が変わらなければ、行動が変わらなければ、心の態度が変わらなければ、口の告白が変わらなければ、人格が成長していなければ、それは真実とは言えません。

相変わらず、自分を可愛がり、神への犠牲を疎み、「みことばはこう言っているけれど…」と言い訳し、周りのせいにし、隣人を訴えているのならば、悔い改めの実を見ることが出来ません(これは私に一番必要な喝なのです…気分を害されるようであれば、どうぞ忘れてください)。

この悔い改めの実を結ぶという作業は、他の人が代わりにすることは出来ません。けれども、互いに励ますことは出来ます。ですから、私はこの場を借りて、まず自分自身のたましいにこのことを言い聞かせ、また皆さんにも日々の悔い改めを励ましたいと思います。

「行きます」という口先だけの者、見えるところだけ敬虔に生きる自分を捨てて、父の願った通りに生きる者へと、共に、一歩ずつ変えられていきましょう。

今日という日に、御言葉に刺し通され、悔い改めて造り変えられ、かの日に、共に喜びと勝利の内に、先に御国へ入りたいと切に願います!!

■A:考えてみよう
自分は本当に神の御前に正しいだろうか。みことばをただ聞くだけの者になっていないだろうか。父の願い通りに、みことばを守り行うことを目標として生きているだろうか。神の恵みを放縦に捉えていないだろうか。みことばが「こうしなさい」と命じていることを、読み飛ばしていないだろうか。

「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、 お互いの間で、 またすべての人に対して、 いつも善を行うよう務めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、 感謝しなさい。 これが、 キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはなりません。
預言をないがしろにしてはいけません。
しかし、 すべてのことを見分けて、 ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、 あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。 主イエス・キリストの来臨のとき、 責められるところのないように、 あなたがたの霊、 たましい、 からだが完全に守られますように。」(第1テサロニケ5:15~23)アーメン!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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