■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書20章13節
★しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
■O:今日のコラム
今日の箇所は「ぶどう園の労務者」のたとえ話しです。このたとえ話しを読むと一般常識ではありえないことが起きます。
主人はぶどう園で働く労務者を雇いに出かけます。一日の間で様々な時間帯で労務者を雇いました。早朝組、朝9時組、昼12時組、午後3時組、午後5時組。
労働終了時刻の午後6時になり、一日の賃金を支払う時間になりました。主人は午後5時の者たちから順番に賃金を払いました。なんと賃金の額は早朝組から午後5時組に至るまでみな賃金1デナリだったのです。一般常識ならば早朝組が多く貰えるはずです。早朝組が主人に文句を言うのも当然の反応です。
神様はこのたとえを通して何を伝えたいのでしょうか?
このたとえでよく言われることは「救い」についてです。ぶどう園の主人は気前の良い神様であり、どんな人にも平等に救いを与えてくださるということです。
人生のどの時点にいようとも、イエスキリストを信じるならば皆救われます。私たちの行いによらず恵みによって救い(1デナリ)は与えられるのです。
このたとえを読む中でもう一つの側面に気付かされます。
「ぶどう園での労働」とはこの地上において「神の国の為に費やした時間」であると言えるのではないでしょうか。人生のある時点で神を信じクリスチャンとなり、そこから天に宝を積む為の労働が始まります。この労働は強いられてではなく、神の愛を動機とするものです。
私たちの人生の中で神の国の為に生きようとするならば多くの葛藤が始まります。12節で早朝組はこのように言います。
「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」
早朝組と午後5時組の違いは早朝組の方が神の国の為に多く時間を費やしたということです。しかも早朝組は「労苦と焼けるような暑さ」の中で最後まで主人に従順に従い通しました。主人は早朝組のこのような姿を知っておられました。そのような早朝組に対して主人は13節において「友よ」と語りかけています。
聖書の中で友と呼ばれているのはアブラハムです。アブラハムは多くの辛抱の中で神を愛し神に従順に従いました。イサクを捧げるという信仰の行いによって神の友と呼ばれていることが証しされています(ヤコブ2:21~23)。
クリスチャン生活で最も重要なことは「神様との関係」です。クリスチャン歴がいくら長くても神様との関係が無ければ何も意味はありません。
早朝組とはただ信仰歴が長いクリスチャンを指しているのではなく、人生の中で神の国の為に多く時間を使い、忍耐し、神を愛することを優先にした人であるとも考えられます。
「救い」は神の恵みによって与えられますが、「報い」は私たちの地上での神様との関係によって決まるのです。
このたとえ話しは前の章の流れから展開されています。19章に登場する金持ちの青年に対してイエス様はこのように言っています。
「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」(マタイ19:21)
「天に宝を積む」という行為は簡単なことではありません。それは十字架の道を行くことです。自分の肉に死ななければ天に宝を積むことは出来ません。早朝組は救いを受けてから多くの時間を神の国の為に費やして来ました。天において宝を沢山積んでいるのです。
時に、神を第一にしているにも関わらず多くの荒野と迫害がやって来ます。早朝組のように神様に文句を言いたくなることがあります。しかし、今日の聖書箇所にあるように神様は「友よ」と呼んでくださるのです。
多くの信仰者、神を愛する者はこの地上では何の報いを得ることはできませんでした。イエス様を愛する弟子たちは多くが殉教していきました。しかし、彼らは天での報いは大きいのです。16節にこのようにあります。
「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)
私たちが「先の者」であるならば、この地上では評価は受けないでしょう。ただ、私たちを通してイエス様が栄光をお受けになり、イエス様の御名だけが崇められるようになるのです。
パウロはこのように語っています。
「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」(第1コリント4:10~13)
この地上では評価されなくとも私たちの内側からイエス様の素晴らしさだけが現されるならばそれで十分です。天での報いを期待し、信仰の完成者であり創始者であるイエス様を日々見上げ歩んでいきましょう。
今日も一日、皆様の上にイエス様の豊かな恵みがありますように。
■A:考えてみよう
私たちに与えられている時間を神の国の為に使っているでしょうか?
日々の歩みの中で神様との関係が疎かになっている領域は無いでしょうか?
今一度自分の心を吟味してみましょう。
■P:祈り
愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あきひろ 】
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