■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書11章16~19節

★「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

■O:今日のコラム
私たちは証人となるべく召されています。

どのように証しするのでしょうか?この聖句は、「行い」によってであると言っています。行いに結びつかなければ、証しできません。私たちの生き様が証しとなるのです。

人々は正しい生き方をしたとしても、批判してくることがあるでしょう。そんなときはイエス様のように、更にへりくだるのです。断食すれば、断食したで色々言われ、食べれば食べるで色々言われるのです。しかし悪に悪をもって返してはなりません。かえってへりくだって善を行うのです。

色々言われることを恐れないでください。世の中の流れに流されれば、何も言われないでしょうが、この世と調子をあわせず、主が仰せになられることにフォーカスをあわせるべきです。

マタイ11章16~17節にもある通り、笛を吹いたり、弔いの歌を歌ってもそれに乗って来ない、とののしられるものです。

正しい生き方をすればするほど、へりくだりをもって証しするべきなのです。イエス様は、この御言葉が書かれた当時、十字架という証拠、しるしを示されました。これしか証拠は示されないとまで宣言されてです。

終わりのとき、再びイエス様が来られるときには、私たちがこの十字架の生き方をして、神の子どもとして証人となるのです。自分の十字架を負ってイエス様についていきましょう!

■A:考えてみよう
主は自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来なさい、と仰せです。主は必ず私たちの救いを達成されます。主に信頼して自分の人生、時間、経済、計画、こだわりやプライドの全てを委ねましょう。

自分の十字架が何であるかを、たとえ部分的であってもつかんでおられるでしょうか?自分に語られた御言葉を握っておられるでしょうか?それをつかんでいなければ、自分の十字架を負うことは難しいのではないでしょうか。

イエス様が父の仰せを全て果たされたように、私たちも主から語られた御言葉の成就を求めましょう!自分の十字架を負ってイエス様についていきましょう!

■P:祈り
主よ。今日も自分の心、思い、体に血潮の力を宣言します。経済、計画、働き、評判、家族、こだわりの全てに血潮に力を宣言します。全てあなたのものです。あなたのために使ってください。今日も御言葉を握り、その成就を求めます。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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2 個のコメント


  1. Haruyo kimura より:

    真島先生へ
    ずっと自分の十字架とは何を意味するのかわからずにいます。自分の罪深い性質を覚えて十字架の贖いの重みを感じてイエス様と生きること。というところにたどり着きそう解釈していましたが、このコラムで先生が、“自分の十字架を部分的にでもつかんで…”を読むと少し違う気がします。どうか一体自分の十字架を負う。とはどういう意味なのか教えてください。お願いします。

    • 真島誠 より:

      Haruyo Kimura様

      ご質問ありがとうございます。
      短くですが言葉を補えればと思います。
      主は、私たちに「イエス様の十字架を負うように」とは言わず、「自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」と言われました、
      私たちには、それぞれに負うべき重荷があるのです。
      それはこの地上での使命と言うことができます。
      イエス様が父から聞いたことだけを行っていたように、私たちにも、御言葉に聞き従うために、主から語られた御言葉があります。
      それは、それぞれが負う重荷であると思います。

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