■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書6章5~6節

★また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

■O:今日のコラム
マタイ6章を読むときに1つのテーマとなるのは、「人前に見えるもの」と「隠れているもの」です。

この見えるもの、また見えないものということを考えたとき、私は1つの御言葉を思い起こしました。

「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(Ⅰサムエル記16:7)

私たち人間は自分の目に見えることで考え、判断する者です。しかし主は肉の目に見えるものではなく、目には見えない「心」に目を留めると言われました。

次の御言葉は私たちが持つべき御国の価値観です。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

私たち人間は見えるところを意識します、しかし主は見えないもので判断されます。

それを踏まえると、隠れたところで何をしているか、表面上は礼拝しているが心はどうなのか、御言葉を表面の文字だけで理解していないか、これら1つ1つは私たちが主の前に出る時、自分自身を吟味する上で考えることでしょう。

これらのことを考えるとき、私たちは心を捧げよう、心からの礼拝をしようと思います。しかしここに1つの問題が生じます。それは私たちの心は陰険で直らないということです。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」(エレミヤ17:9~10)

もはや絶望しかありません。心を捧げたい、御言葉を行いたいと思っても、この心は直らず、直らない心のまま何かを行っても、それは表面的な行いになってしまいます。その実は不敬虔の実になりかねません。

まさにこのような気持ちになったのか、ある人々がイエス様にある質問をし、その質問に対してイエス様は私たちに希望となる御言葉を語ってくださいました。

「これを聞いた人々が言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」(ルカ18:26~27)

私たちは自分たちの力でこの心を変えることはできません。文字通り、「神業」が必要です。つまり、この心が神によって造り変えられて、心に御言葉が刻まれ、その心から生まれる、従順という行いを伴うその心を主は求めておられます。

自分の力で何かを達成しようとするのは、パリサイ人の霊性です。パリサイ人や律法学者はトーラーを「文字」通り行っていました。そこに書かれていた言葉通りを行おうとした人たちです。しかしそのパリサイ人たちをイエス様は叱責されました。

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」(マタイ23:23)

では私たちはどうするべきでしょうか。

私たちは「文字」に死ぬ必要があります。つまり表面的なものや見えるものに心を留めること、またそのような行いに死ななければなりません。

御言葉を朗読し、守り行おうとするけどできないという自分に直面する必要があります。なぜならその事を通して、自分にはもっと神様が必要であるという神ご自身への飢え渇きが起こり、知恵と啓示の御霊の中で、霊であるいのちのことば、御言葉をさらに求めていくからです。

幕屋の奥にある至聖所には主の声があります。私たちはその声を求めていくべきです。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)

この死というプロセスを通して、私たちは本質に立ち、自分にはイエスキリストが必要であることを知るでしょう。自分にどれだけイエスキリストが必要であるか、それを知ることは価値あるものです。死の先には復活があります!

そして神のしもべとなって御言葉を悟るために、この心と耳に割礼を受けていくのです。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)

「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7:51)

私たちは自分に死ぬという割礼を受ける必要があります。自分の力で行う、自分に都合の良いように御言葉を聞き、またそのように読む、そのような古き人を脱がせていただきましょう。

■A:考えてみよう
自分の心を吟味していきましょう。主の前に静まる時を持ちましょう。
その中で以下のことを考え、示されるならば悔い改めていきましょう。

・主のためと言いながら自分のために考えて行っていることはないだろうか。
・自分の力で何かを達成しようとしていないだろうか。
・御言葉をないがしろにしていないだろうか。表面だけを読んでいないだろうか。

また心と耳の割礼を求めましょう。以下の御言葉を何度か繰り返し宣言して祈りましょう。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)

■P:祈り
愛する神様、今日もあなたの御名をあがめます。あなたの御言葉をほめたたえます。
主よ、今日という日に私の心と耳に割礼を施して下さい。私の心を造り変えて下さい。
私は自分の力で何かを成そうとし、また自分に合わせて御言葉を受け取っていました。どうぞここにある自我を焼き尽くして下さって、いのちのことばによって造り変えて下さい。
この死を通して、私の古き性質が明らかにされて、血潮によって洗い聖められて、私の中に神のかたちが回復することを願います。
御言葉そのものへと、真実な御言葉へと私を造り変えて下さい。

愛する主イエスキリストの名によって祈ります。アーメン。

【 たくみ 】

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