■S:今日の聖書の言葉
創世記27章34節

★エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」

■O:今日のコラム
創世記25章で、兄エサウは弟ヤコブに長子の権利を売ります。そして、今日の箇所において、父イサクにごちそうするために出かけた兄になり代わって、弟ヤコブが長子としての祝福を受けることとなります。

エサウは、この地上に属することを追い求めた代表と言えます。自分の満たし、自分の楽しみ、自分の快楽、目の前の必要が満たされることを追求しました。

その結果、彼は長子の権利によってもたらされる神の祝福や、神から承認されることを軽視したのでした。聖書にはこのように記されています。

「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル12:16~17)

神は人をえこひいきなされる方ではありません。しかし、聖書には、

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」(ローマ9:13)

と、記されています。神から愛される者と、憎まれる者の違いは、神に対するその人の心の態度と大きく関わっています。聖書にこのように記されていることを覚えましょう。

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(1サムエル記2:30b)

「あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」(マラキ3:18)

主は私たちの心の動機を見ておられます。

ヤコブは人の目から見ると、エサウをだまし、長子の権利を奪い取ったひどい人物のように見えますが、神の目から見ると神の祝福を飢え渇き求めた神を恐れかしこむ信仰者だったのです。双子でありながらその違いはどこで生じたのでしょうか。

エサウは「巧みな猟師、野の人となり」、ヤコブは「穏やかな人となり、天幕に住んでいた。」(創世記25:27 参照)と、聖書に記されています。

エサウは自分の力に自信があり、この世の成功を追い求める者であり、ヤコブは穏やかな心を持って天幕に住む者でした。これは自分の力に頼って生きる人生と、主の臨在を慕い求める人生の違いと言えるでしょう。

今日、私たちはこのエサウとヤコブの主に対する信仰の姿勢から学び、日々の生活の中で主を愛し、主を恐れかしこみ、主を尊重し、主を礼拝することを喜びとし、主の御顔を慕い求め、その臨在の中にとどまる者となりましょう。

■A:考えてみよう
今日、自分が所属する教会の日曜礼拝を大きな喜びとして、主に対する飢え渇きと良き心をもって礼拝に参加しましょう。
一週間の最初を礼拝で始め、毎日の生活の中で礼拝者として主を求めて歩みましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ひさえ 】

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