■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの黙示録22章14〜15節

★自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。

■O:今日のコラム
イエス様は、ご自分の権威にしたがって、それぞれに永遠の報いを与えられます。ここで、イエス様が都に入れる者とそうでない者を選り分けられます。

都に入れない一番のトップリストに挙げられているのが「犬ども」です。これは、あなたの飼い犬は天国に入れませんよ、ということではありません。

文字通り、犬が問題なのではありません。聖書で犬と表現されている時、以下のような者を指します。

・悔い改めることをせず、自分の好む道に向かい、自分の利益を求める牧者(イザヤ56:11参照)
・自分を義とする悪い働き人(ピリピ3:2参照)
・兄弟に対して敵意、争い、そねみ、憤りを持つ者(ガラテヤ5:15-21参照)
・自分で吐いた物のところへ平気で戻る者。元の性質、古い価値感に戻る者。低いアイデンティティー、自己卑下(箴言26:11,2ペテロ2:22参照)

私たちは天国行きの切符を持っているから、これらは私たちには関係のないことなのでしょうか。そうではありません。これは、イエス様を信じていながらも、何度もそこから離れていく者たち、確信しながらも、再び後ろに引き戻っていく者たちのことを言っています。

つまり、黙示録22章15節の「犬ども」とは、クリスチャンであることが前提の言葉なのです。

終わりの時代にあって、神様を愛する者たちの最大の願い、関心事は、やがて天の御国に上げられ、主の食卓にあずかること、最愛の花婿なるイエス様と一つとされることだと思います。

しかし、今一度私たちは目を覚まし、今、自分がどこに立っているか、御国に入る準備が出来ているのかどうか、吟味する必要があります。なぜなら、みことばには、はっきりとクリスチャンであっても都の外に出されるということが書いてあるからです。

都に入れないリストの2つ目以降、「魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者」は全て、行いについて書かれています。しかし、「犬ども」は、行いではなく、肉の性質について触れています。つまり、私たちの内側、目に見えないたましいの領域について語っているのです。

この、「犬ども」が一番はじめに挙げられていることは、決して偶然なことではありません。主は、「まず内側をきよめなさい」と言っておられるのです。

結局は、律法学者、パリサイ人たちのように、外側は立派に見えても、内側が偽善と不法でいっぱいであるなら、私たちはゲヘナの刑罰をのがれることはできません(マタイ23:33参照)。

終わりの時、最後まで戦い抜かなければならないこと、私たちが勝ち取るべき領域は、私たちの内側にあるのです。

さて、今日は、2017年最後の日です。私たちはどのように、2017年を締めくくるでしょうか。レースにおいては、どのようにスタートし、どのように走るかが重要です。しかし、最終的に重要なのは、どのようにゴールするかということです。

どのようにイエス様と出会い、イエス様との歩みをスタートさせたかという証しは尊いものです。しかし、もっと大切なことは、最後まで主が与えてくださったレースから離れず、自分の立つべき場所に留まり続け、最後の最後まで忍耐をもって走るべき道のりを走り抜いたか、ということです。何かを始めることは大切ですが、最後までやり遂げることはもっと大切なことなのです。

私たちは、最後の時、地上の人生をどのように締めくくり、そしてどのように天の御国へと入れられていくのでしょうか。このことを考えるのはとても重要な事です。なぜなら主が戻って来られ、主と共に過ごす永遠の時が間近であるからです。

最後の走りが本当に肝心です。だからこそ、今、目を覚まし、私たちを後ろに引き戻す敵の力に打ち勝たなければなりません。

最後まで走り抜く、とは、自分の夢や願いが達成することでも、主の約束を全て見届けることでもありません。最後の最後まで、小羊の血潮によって罪汚れを洗い、ゴールに向かって私たちの内なる人が完成されていく歩みなのです。

「正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録22:11b)

最後の走りは、「いよいよ聖なるもの」とされていく最後の段階です。

自分は成長している、と思っていても、内側にはまだまだ勝ち取らなければならない領域がたくさんあるはずです。私たちの中に住みついている「犬ども」すなわち、悔い改めのない生き方、自分の意のままに生きる性質、兄弟を訴え自分を義とする歩み、低いアイデンティティー、世の価値観に引き戻る性質、これらが完全にきよめられなければなりません。

「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」(黙示録22:14)

やがて、主が再び戻って来られた時に、小羊の血潮で洗われている者は、幸いな者なのです。十字架の血潮は私たちをきよめ、聖なる花嫁としてくださいます。

自分の力で信仰の歩みを全うすることは到底できません。だからこそ、イエス様の血潮により頼み、御霊の力によって自分の肉を欲望とともに十字架につけ、みことばによって造り変えられ続けていきましょう。

神様が私たちに与えてくださったレースから離れず、最後の章を立派に締めくくるなら、その者たちは、幸いな章の始まりを迎えるのです。

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(Ⅰテモテ6:12a)

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:7)

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:12-13)

■A:考えてみよう
・私たちの目的地はどこでしょうか。
・私たちが最後まで走り抜くために、今、神様が望んでいる場所に立っているだろうか。もし、その場所から遠く離れてしまっていると感じるなら、悔い改めて、本来立つべき場所へと立ち返りましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ひさえ 】

カテゴリー: マナメール

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