■S:今日の聖書の言葉

黙示録5章4-6節(ゼカリヤ書1章)

★(4)巻き物を開くのにも、 見るのにも、 ふさわしい者がだれも見つからなかったので、 私は激しく泣いていた。
(5)すると、 長老のひとりが、 私に言った。 「泣いてはいけない。 見なさい。 ユダ族から出た獅子、 ダビデの根が勝利を得たので、 その巻き物を開いて、 七つの封印を解くことができます。 」
(6)さらに私は、 御座--そこには、 四つの生き物がいる--と、 長老たちとの間に、 ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。 これに七つの角と七つの目があった。 その目は、 全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

■O:今日のコラム
年末に入り、今年も私たちは黙示録を読み進めています。皆さんにとって、黙示録はどのような書物でしょうか?難しい書物だと思ってらっしゃる方は、その考えを改めなければならないかもしれません。
黙示録の1章3節にはこのように書かれています。

「この預言のことばを朗読する者と、 それを聞いて、 そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。 時が近づいているからである。」

誰が幸いなのでしょうか?「黙示録を理解するものは幸いだ」とはどこにも書かれていません。「朗読し、そこに書かれていることを心に留める」人が幸いなのです。
もし、黙示録を難しい、恐ろしい書物だと思っている人は、サタンに騙されているのかもしれません。なぜなら、これを聖徒が理解するなら、サタンは自分が滅ぼされることが明らかにされることを知っているからなのです。

今日の聖書の箇所では、ヨハネが天で巻物を見、それを開く人が誰もいないので泣いてしまうという所になります。
この黙示録を書いた時、ヨハネの年齢は90歳くらいではなかったかと言われています。そのような人が、しかも激しく泣くということはよっぽどのことだと思います。

しかし、長老があらわれ、「泣いてはいけない。見なさい!」と言います。
いったい何を見るのでしょうか。それはユダから出た獅子、ダビデの根、またほふられたと見える子羊です。
「ユダから出た獅子、ダビデの根」とは、系図的に、また旧約聖書に預言されているとおりのメシヤを指し示しています。
そして、「ほふられたと見える」とは、聖書で預言されている通り、人々の罪の贖いのために死なれ、復活された方の傷跡を指し示していると考えられます。

私たちの人生の中で、激しく泣きたくなることがあるでしょう。しかし、そのときにこそ聖書は「見なさい!」と私たちの目を復活の主に向けさせてくれます。
私たちの目の前に、どんな絶望的な事があったとしても、それを自分の力だけで解決しようとするなら、悲しみは増し加わります。しかし、全ての問題にすでに勝利されたお方、私たちの唯一の救い主であるイエス様に目を向ける時、本当の解決が与えられます。

アブラハムがイサクを捧げようとした時、このようにみことばに書かれています。

「 (13)アブラハムが目を上げて見ると、 見よ、 角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。 アブラハムは行って、 その雄羊を取り、 それを自分の子の代わりに、 全焼のいけにえとしてささげた。
(14)そうしてアブラハムは、 その場所を、 アドナイ・イルエと名づけた。 今日でも、 「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。」(創世記22:13-14)

「見なさい!」と。見たところに一頭の雄羊がいたのです。

また、バプテスマのヨハネはこのように言います。

「イエスが歩いて行かれるのを見て、 「見よ、 神の小羊」と言った。」(ヨハネの福音書1:36)

終わりの時代、私たちが見続けるのはイエス様の十字架しかありません。的を見続けて走らなければ、的外れ(ハマルティア、すなわち罪)の道を歩むことになってしまいます。

「信仰の創始者であり、 完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、 ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

■A:考えてみよう
私たちは瞬間瞬間、何を見ているだろうか。このマナメールを見終わった後、すぐにゲームアプリに切り替えたり、SNSばかりを見ていないだろうか。
聖書はある意味真理が隠された書物です。それを御霊により頼み、真理を求める者に開かれていく書物です。その封印を解く鍵はイエス様の十字架しかありません。封印された書物を外から眺めているだけではだめなのです。
しかし、十字架を見続け、この御方を通してみことばの真理を求めていくなら、黙示録5章の後半に書かれている天での大勢の天使たちの賛美、そして、私たち地上で生活している聖徒たちの祈りと賛美がひとつとなり、神様から来る平安と喜びが満ち溢れていくはずです。

黙示録の最後にはこのように書かれています。

「 (20)これらのことをあかしする方がこう言われる。 「しかり。 わたしはすぐに来る。 」アーメン。 主イエスよ、 来てください。(21) 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。 アーメン。」(黙示録22:20-21)

みことばがこう言っているのであれば、イエス様はすぐに来られます。「今日、イエス様がお迎えに来られても良い。しかし、たとえ私のこの地上での使命が終わるときまでお迎えに来られなくてもイエス様を見続ける」という再臨の信仰をいつも持ち、聖なる緊張感を忘れないように生きていきたいと願います。

■P:祈り
愛する天のお父さん、私にこの地上で生きていくという素晴らしいことをして下さった主をほめたたえます。それだけでなく、本来なら永遠の死という刑罰を受けて当然だった私を一方的な恵みによって、イエス様の十字架の死と葬りと復活を通して永遠のいのちへと導いてくださった驚くべき御業を心から感謝します。
しかしながら、日々の忙しさに追われ、私の救い主であるイエス様から目を離してしまい、あたかも神様がいないかのように日々の生活を歩んでいることを赦してください。
私一人では何もなすことが出来ないのに、何かを成し遂げた時に「自分でやった!」という高ぶった思いを持ってしまっていることを悔い改めます。すべては主が成してくださったことです。
創世記から黙示録に至るまで、みことばは「見なさい!聞きなさい!」と訴えかけます。そのようなみことばには聞き従うことが出来ず、自分の好きなみことばだけを選り好みをして受け入れていた幼い信仰を悔い改めます。
嬉しいときも悲しいときも、健やかなときも病めるときも、どんなときであっても私の目がイエス様の十字架からずれることが無いように、聖霊様、助けてください。
みことばを私的解釈すること無く、また選り好みをすることなく、神のことばを神のことばとして受け止め、すべてのみことばに「アーメン」することができるように助けてください。
私を永遠の喜びの源へと導いて下さった偉大な王の王、ユダから出た獅子、ダビデの根、ほふられ、復活されたただひとりの救い主なるお方、愛する花婿イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

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