■S:今日の聖書の言葉
箴言25章12節
★知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、 金の耳輪、黄金の飾りのようだ。
■O:今日のコラム
黙示録で「聞く耳のあるものは御霊が諸教会に言うことを聞きなさい」と主は言われます。その教会が聞く耳を持つことは、勝利を得るための初めの一歩なのです。私たちに与えられた信仰、これこそ世に打ち勝った勝利なのですが、その信仰は神の言葉を聞くことから始まるのです。
全ては、神の御口から解き放たれた言葉によって始まっていきます。ベタニヤのマリヤは、ひれ伏して主の御口から出る言葉に聞き入っていましたが、これを主はただ一つのことと仰せになりました。私たちはパンのみによって生きるのではなく、神の御口から出る一つひとつの言葉によるのです。ハレルヤ!
神の言葉を聞く耳とは何でしょうか?どんな耳でしょうか?それは霊的な耳であり私たちの心のことです。イエス様は、御言葉を悟ることができるように弟子たちの心を開いた、とルカ24章にあります。
ではそれはどんな心なのでしょうか?それは聞いたことに従って神への愛を表したいという心なのです。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。御言葉を聞くことは知識を蓄えるためではありません。もちろんそのことも含まれていますが、その中心的な目的は、どうやって神を愛するかなのです。
母親は、夜寝るときに子どもが身体をかゆがって寝ずらい時に、「どこがかゆいの?」と言って眠るまで優しくかいてあげるものです。そうすると子どもは気持ち良くて、すぐにスヤスヤと眠りにつくのです。子どもが「背中の上の方」とか「膝の裏」とか言ってくれるから的確にかゆいところに手が届くのです。
主も、ご自身の計画のために「ここだよ」とか「これだよ」という語りかけを私たちにしてくださいます。主が願っておられることが、なかなか成し遂げられないなら、主は忍耐され歯がゆくなられるでしょう。そのかゆいところに手が届く私たちでありますように!主の心を喜ばせる私たちでありますように。主の語りかけは、「このようにして、わたしに愛を表して欲しい」という神からのリクエストなのです。
主は私たち一人ひとりに計画を持っておられますが、それは皆ユニークなもの(面白いという意味ではなく、個々のという意味です)なのです。もちろん全ては御言葉の中にありますが。そして教会全体で聖書の御言葉の全てを成就していくのです。ハレルヤ!
聞く耳とは、聞いたことを成し遂げ、主の栄光をあらわす飢え渇きを持った耳であることを、主はこのように語っておられます。
「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:16-18)
御言葉を行う決心をして聞きましょう!そのような心、しもべの心を持った者に、主はお語りになられるのです。「しもべは聞いています。どうぞ。お語りください。」
そして今日の箴言25章12節には、「叱責を聞き入れる耳は、飾られた美しい耳である」と教えています。他の箇所にはこうあります。
「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、 知恵のある者の間に宿る。
訓戒を無視する者は 自分のいのちをないがしろにする。 叱責を聞き入れる者は思慮を得る。」(箴言15:31-32)
叱責とは父の懲らしめ、義のゆえの困難、試練です。「行います」という覚悟とは、「たとえ苦しみが伴っても行います」という覚悟です。主は、私たちに愛することと、愛さないことを選ばせるのですが、私たちは愛することを選びましょう!
■A:考えてみよう
聞いたら従う覚悟を持って聖書を開こう!
■P:祈り
主を愛します。あなたがこれ以上ない最高の愛で私を愛しておられるから。
この愛が私の生きる意味です。あなただけが私の目的です。あなたがいない世界に望みはありません。
あなたを愛する情熱を今日も私にお与えになって、あなたのいのちをお与えになって、いのちであるあなたと一つにしてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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