■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書3章2節(ヨブ記3章)
★「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
■O:今日のコラム
バプテスマのヨハネのことばです。次の章の4章では、宣教を始めたイエス様が1番初めに同じ言葉を語られました。
「2人、3人の証言」と言うのは確かさを表します。
立て続けに語られたこの言葉を、私たちは重く受け止める必要があるのではないか、と感じます。
7節において、バプテスマを受けに来たパリサイ人、サドカイ人たちに向かい、バプテスマのヨハネは言いました。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。」(マタイ3:7b〜9a)
強烈な言葉です。
ヨハネは、パリサイ人たちが「自分たちはアブラハムの子孫だから、それがゆえに、自分たちは義人だ。大丈夫だ。」とあぐらをかいていました。
心からの悔い改めによらず、彼らはただ儀式としてのバプテスマを受けようとしていたことへ、ヨハネは憤りを覚え、上記のような厳しい言葉を発したのでした。
「これこれのゆえに自分は大丈夫だ。」と言う心。私たちクリスチャンも、抱く可能性のある心です。
「私たちは教会に行っているから大丈夫だ」…と。
8節では、
「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」
と言っています。放っておいても自然に実るものであるならば「結びなさい」とは、言わなかったでしょう。
私たちは行いにおいて、人を殺すことがなかったとしても、行いにおいて姦淫を犯すことが無かったとしても、私たちの心の中においてどうでしょうか。
主はいつも心を見ておられます。私たちが「心を尽くして」主を愛しているかどうかが、主の1番の関心ごとであります。
なぜなら主が、それほどに私たちを愛しているからです。
愛する者の何が欲しいか。それは真実な心です。
「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。」(詩篇51:6)
マタイ15章では、イエス様が
「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」
と言っておられます。
私は、新しい白い服を着ると、なんとなくトマトソースなどの食べ物を避けてしまいます。汚れも目立ちますし、その白さを保ちたいと願うからです。
同じように、私たちが日々、悔い改めて、きよめられて行くことを通して、今度はますます罪から自分を遠ざける者へと変えられるでしょう。きよさを保ちたいという願いが増し加えられます。
悔い改めは、あまり人気の無いテーマです。けれども、この悔い改めは誰のためでも無い、自分のためなのです。
私たちは何故、悔い改めるのでしょうか。
罪や咎は、私たちと愛する方の間に割って入ります。主との親しい交わりから、私たちを遠ざけます。
「 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ書59:1,2)
聖霊様が悲しまれます。
ひとえに、この方を悲しませたくない。愛する方との間に何も隔たりがあって欲しくない。
主に愛されていることを知れば知るほど、主との関係を阻む、罪と咎を忌み嫌うでしょう。それが、悔い改めの理由です。
悔い改めて、罪が一掃されるならば、私たちが主から祝福を受けることを阻むものは、なくなります。
祝福の源、喜びと平安の源であられる主ご自身と自分との間の隔たりが、なくなるのです!
罪、悔い改めて、主との隔たりがなくなった状態、主と一つになれることこそ、もっとも幸いな状態ではないでしょうか!
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一 1:8,9)
■A:考えてみよう
今日も主の恵みから、私たちを遠ざけようとする、罪を、主の御前に悔い改め、きよい心を求めていこう。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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