■S:今日の聖書の言葉
マタイ13章すべて(※下記の「O」の中で順次出てきます)(詩篇135篇)

■O:今日のコラム

※今日のマナメールは非常に、非常に長文になってしまいました。知恵と啓示の御霊が注がれ、霊的な啓示が開かれていくようお祈りします。
もし、携帯電話の文字制限などで最後までご覧いただけない場合は、新宿シャローム教会のホームページ https://shinjuku-shalom.com/ からご覧ください。

先日、新宿シャローム教会では黙示録セミナーが開催されました。私個人的にはとても目が開かれ、みことばに対する飢え乾きがますます激しくなりました。その中で私が教えられたことは、聖書の読み方です。先生は直接聖書の読み方を講義されていませんでしたが、4日間のセミナーの中で、聖霊様が私に教えてくださったのは聖書の読み方でした。その大きな視点は、聖書全体を十字架を通して終末を見据えながら読むということでした。

皆さんは聖書を読むことができるでしょうか。もちろん、できると思います。しかし、本当に「読んで」いるでしょうか。今日の聖書箇所、マタイの福音書13章からイエス様が教えて下さった聖書の読み方を共に見て行きたいと思います。

<マタイ13:1-2>
その日、 イエスは家を出て、 湖のほとりにすわっておられた。
すると、 大ぜいの群衆がみもとに集まったので、 イエスは舟に移って腰をおろされた。 それで群衆はみな浜に立っていた。

この箇所を終末を見据えながら読んだ時、黙示録の下記のところが思い起こされました。

<黙示録4:6>
御座の前は、 水晶に似たガラスの海のようであった。 御座の中央と御座の回りに、 前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

●なぜたとえを用いて話されるのか

イエス様はいつも終末を視野に入れながら、たとえを話されたのではないかと思います。イエス様は福音書の中で多くのたとえを用いて話されました。それはなぜでしょうか。答えは次のとおりです。

<マタイ13:10-11>
すると、 弟子たちが近寄って来て、 イエスに言った。 「なぜ、 彼らにたとえでお話しになったのですか。 」
イエスは答えて言われた。 「あなたがたには、 天の御国の奥義を知ることが許されているが、 彼らには許されていません。

イエス様の愛と配慮、そして弟子たちへの警告が同時に含まれているみことばです。ここから教えられることは、イエス様が誰に対して話しているかを注目する必要があるということです。イエス様の事をまだよく知らない群衆に対して、いきなり真理を直接語るのは、生まれたばかりの赤ちゃんにステーキを食べさせるようなものです。イエス様は群衆に対しては真理を含んだ内容をオブラートに包んでやさしく伝えられました。
同時に、同じ内容を持って弟子たちには厳しい要求をつきつけられました。イエス様を信じている私たちはこちらに分類されるでしょう。ですので、この事を注意深く見る必要があると思います。

イエス様は弟子たちの「なぜたとえで話されるか」という問いに対して、「弟子たちは奥義を知ることがゆるされているから」と答えられます。これこそ、私たちが目指す聖書の読み方です。たとえの中から奥義を悟るのです。

モーセの幕屋では、中に入るために門を通らなければなりませんでした。それはイエス様を象徴しています。そして、大庭ではまずいけにえが捧げられ、次に洗盤によって清めが行われました。みことばを読むときにも私たちはイエス様を通って賛美のいけにえ、また悔い改めをもって行くことが大切です。そして聖所の中に入ります。そこには3つの器具がありました。燭台とパンの台と香の壇でした。
パンの台はみことばを象徴します。ロゴスのみことば、真理です。その正面にあったのは燭台です。真っ暗の幕屋の中での唯一の光はこの燭台の明かりです。燭台は聖霊様を象徴しています。その明かりは正面にあるパンの台のみを照らすように出来ていました。これは、ロゴス(真理)に光(聖霊様)が
当てられることにより、レーマとなることを象徴しています。つまり、みことばを読むときにはいつも聖霊様の助けが必要なのです。
むつかしいみことばでも、聖霊様の光だけを求めて真理を探求し続けるのであれば、優しい聖霊様はかならずみことばの扉を定められた時に開けてくださいます。諦めずに求め続けましょう!
それに加えて香の壇は祈りを意味しています。真理が光に照らされる中で捧げられる祈りは、かぐわしい香りとして主の御前に立ち上っていきます。

まとめると、なぜたとえで話されるかというと、群衆に対しては優しく語り、弟子に対してはその中から真理を探しだしてほしいというイエス様の愛と配慮からだと思います。
もし、私たちがそのような読み方をしていくなら、みことばの扉はどんどん開かれていくでしょう。

●みことばの扉が開かれるために

<マタイ13:12-13>
わたしが彼らにたとえで話すのは、 彼らは見てはいるが見ず、 聞いてはいるが聞かず、 また、 悟ることもしないからです。
というのは、 持っている者はさらに与えられて豊かになり、 持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

聖書は、なんとなく読んでもなかなか真理が開かれません。メッセージを習慣として聞いても悟れません。聖書は難しいかもしれません。しかし、親切にできています。必ずどこかに難しいみことばを紐解く鍵が散りばめられています。その鍵を見つけたときの喜びは何にも代えがたいものです。
つまり、聖書を読むときには本当に飢え渇いた心で真理を求める姿勢が大切なのです。もし、みことばを開く鍵がひとつ与えられたなら、その鍵を用いて扉が開かれ、その先にある更に深い領域まで進み、更に多くの鍵を見つけることができるでしょう。イエス様の言われた「持っている者はさらに与えられて豊かになり、 持たない者は持っているものまでも取り上げられる」とは、そのようなことを意味しているのではないかと思います。
みことばをわからないからといってすぐにあきらめてしまうなら、持たない者になってしまいます。飢え乾きをもって、ますます多くを持つものへと変えられていきましょう。
それでは具体的にどのように鍵をみつけ、開いていくかを共に見て行きたいと思います。

●イエス様が教えて下さるみことばの読み方

<マタイ13:3-9>

イエスは多くのことを、 彼らにたとえで話して聞かされた。  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、 道ばたに落ちた種があった。 すると鳥が来て食べてしまった。
また、 別の種が土の薄い岩地に落ちた。 土が深くなかったので、 すぐに芽を出した。
しかし、 日が上ると、 焼けて、 根がないために枯れてしまった。
また、 別の種はいばらの中に落ちたが、 いばらが伸びて、 ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、 あるものは百倍、 あるものは六十倍、 あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。 」

このみことばは群衆に対して勝たれていることですので、真理はオブラートに包まれています。何度も目にし、聞いてきたこのたとえだと思いますが、このみことばの真理は何でしょうか。もちろん、みことばは神のことばなので、様々な適応があると思いますが、一番確実なのはみことばをもってみことばを紐解くという方法です。そのためには、この後に語ったイエス様のみことばが鍵になります。

<マタイ13:18-24>
ですから、 種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、 悪い者が来て、 その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。 道ばたに蒔かれるとは、 このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、 みことばを聞くと、 すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、 自分のうちに根がないため、 しばらくの間そうするだけで、 みことばのために困難や迫害が起こると、 すぐにつまずいてしまいます。
また、 いばらの中に蒔かれるとは、 みことばを聞くが、 この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、 実を結ばない人のことです。
ところが、 良い地に蒔かれるとは、 みことばを聞いてそれを悟る人のことで、 その人はほんとうに実を結び、 あるものは百倍、 あるものは六十倍、 あるものは三十倍の実を結びます。 」

このみことばは、弟子に対して語られているので、真理がそのまま書かれています。ここから分かることは、
・道ばたに落ちた種=みことばを聞いても悟らない
・岩地に落ちた種=みことばを受け入れるがそこにとどまり続けない
・いばらの中に落ちた種=みことばを聞いてもその他の者で心を満たしてしまう
・良い地に蒔かれた種=みことばを聞いて悟る
ということです。できたら、聖書を読むときにノートを用意して、このようにみことばを分解して整理しながら書いていくとより深い真理に気付かされることがあります。

もう少し深く見て行きましょう。

<マタイ13:24-30>
イエスは、 また別のたとえを彼らに示して言われた。  「天の御国は、 こういう人にたとえることができます。 ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、 人々の眠っている間に、 彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、 やがて実ったとき、 毒麦も現れた。
それで、 その家の主人のしもべたちが来て言った。  『ご主人。 畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。 どうして毒麦が出たのでしょう。 』
主人は言った。 『敵のやったことです。 』すると、 しもべたちは言った。 『では、 私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。 』
だが、 主人は言った。 『いやいや。 毒麦を抜き集めるうちに、 麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、 収穫まで、 両方とも育つままにしておきなさい。 収穫の時期になったら、 私は刈る人たちに、 まず、 毒麦を集め、 焼くために束にしなさい。 麦のほうは、 集めて私の倉に納めなさい、 と言いましょう。 』」

これも群衆に対して勝たれているので、やはり真理はオブラートに包まれています。この事に対してもより明確にイエス様は教えて下さいます。聖書は難しいですが、親切な書物です。

<マタイ13:36-43>
それから、 イエスは群衆と別れて家に入られた。 すると、 弟子たちがみもとに来て、 「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスは答えてこう言われた。 「良い種を蒔く者は人の子です。
畑はこの世界のことで、 良い種とは御国の子どもたち、 毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、 収穫とはこの世の終わりのことです。 そして、 刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、 毒麦が集められて火で焼かれるように、 この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその御使いたちを遣わします。 彼らは、 つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、 御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。 彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
そのとき、 正しい者たちは、 彼らの父の御国で太陽のように輝きます。 耳のある者は聞きなさい。

これは弟子に対して書かれています。しかも、家に入って語られたものです。祈りの家でみことばの真理を求める時、このようにはっきりとみことばの真理を教えられることがあります。ぜひ、祈りの家にいき、みことばを深く聞く時を持ってください。

ここには明確に解き明かしが書かれています。
・畑=この世界
・良い種=御国の子どもたち
・毒麦=悪いものの子どもたち
・毒麦を蒔いた敵=悪魔
・収穫=この世の終わり
・刈り手=御使い
この解き明かしを当てはめながら、先の群衆に語られたみことばを読む時、また違った角度からみことばを見ることができるのではないでしょうか。みことばの解を他のみことばに代入して方程式を解く感覚です。どうでしょうか。さらに深い領域に導き入れられたのではないかと思います。
これは明らかに終末の事を語っています。時間を取って黙示録1-22章を全部読んでみてください。このイエス様のたとえがより深く見えてくると思います。

この鍵を持って他の箇所を読むなら、「畑」と出てきた時には「この世界」と読み替えることができます。もちろん、翻訳の関係もあるので、厳密には言語レベルで見ていく必要もあると思いますし、100%この事が適応されるわけではありませんが、多くはこの方法で見えてくるものがあると思います。このように、イエス様が語られたたとえの中から鍵を見出してそれを当てはめながら聖書を読むことも大切だと思います。

それでは、これらを踏まえて練習問題です。

<マタイ13:44>
天の御国は、 畑に隠された宝のようなものです。 人はその宝を見つけると、 それを隠しておいて、 大喜びで帰り、 持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

このみことばを紐解いてみましょう。

天の御国は畑(この世界)に隠された宝(隠された魂)のようなものです。人(キリスト)はその宝(魂)を見つけると、それを隠して、大喜びで帰り、持ち物をを全部売り払って(ご自分の命までも捨てて)畑(この世界)を買います。

と言い換えられます。私たちはイエス様に見出され、しばらくの間この世の畑に隠されています。見出された魂を隠しておかれる世界を買い取るため、ご自分の命をも惜しまず十字架にかかり、買い戻して下さいました。何という恵みでしょうか。
続くたとえには真珠の話も出てきますが、これも同じようなことを言われています。

弟子たちに注意深くこの事を教えられたイエス様は、弟子からの返事を待ちます。

<マタイ13:51>
あなたがたは、 これらのことがみなわかりましたか。 」彼らは「はい」とイエスに言った。

私たちが心からみことばを聞く準備ができ、イエス様に「はい」と言うなら、どのようなことが待ち受けているでしょうか。

<マタイ13:52>
そこで、 イエスは言われた。 「だから、 天の御国の弟子となった学者はみな、 自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。 」

おどろくべきことです。天の御国の弟子となった学者はみな、自分のうちに蓄えたみことばの約束をいつでも取り出すことができるのです。新しいものでも古いものでもとは、新約聖書、旧約聖書を指しているのでしょう。飢え渇いた心を持ってみことばに聞き入り、みことばの剣を自由自在に使えるようになりたいですね。

最後に、イエス様はこのように言われました。

<マタイ13:58>
そして、 イエスは、 彼らの不信仰のゆえに、 そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。

何度もみことばを聞いているからといって、みことばを軽く見ないようにしましょう。みことばは神です。一つとして無駄なみことばはありません。主への期待を込めて、信仰の限りをつくしてみことばを受け取りたいという心の態度を持ってみことばを読むなら、必ず開かれていきます。一度読んでわからないならもう一度読みましょう。それでもダメなら分かるまでみことばを読みましょう。ヤコブがしたようにもものつがいを打たれてもみことばとがっぷり四つになって相撲をとりましょう。みなさんにみことばの真理が開かれていくことを祝福します。

もう一度はじめのところに戻りますが、聖書をイエス様を通して終末を視野に入れて読む。そしてイエス様が教えて下さった答えを代入してみことばを読む。そのような読み方をするなら、更に深い領域へと導かれ、主と更に親密な交わりができるようになると思います。

※みことばの適応、また解釈は時として主の望まれない方向へと私たちを導いていってしまう危険性があります。少しでも不安、疑問があるなら、必ず、所属教会の牧師先生に確認を取り、牧師先生のご意見に従ってください。

■A:考えてみよう
手元に聖書を用意しましょう。(スマホではなく、印刷された聖書)ノートを用意しましょう。ペンを用意しましょう。そして、祈り、みことばを読み進めていきましょう。気になったみことばはそのまま抜き出しましょう。そして、自分なりの工夫をして、わからないみことば、教えられたみことば、自分が気づいたことなどをどんどんノートに書き込んでいきましょう。
人は読むだけでは定着しません。みことばを書きながら読むなら、より深い領域に導き入れられていくのを感じることができると思います。もし、これを始めるなら、一つの問題が浮上してきます。時間があまりにも足りないということです(笑)
そうするなら占めたものです。自分の中でテレビやゲーム、その他の削れる時間、は無いかを探し、その時間をみことばにあてましょう。この事を毎日少しでもいいので続けていくなら、揺るがない岩の上に賢く家を建てることになるでしょう。さあ、共にみことばの深みへと導き入れられていきましょう!

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたが与えて下さったみことばをありがとうございます。みことばはあなたご自身です。みことばを知ることはあなたを知ることです。だから、あなたを知るためにもみことばを味わう素晴らしさ、楽しさをもっと教えて下さい。
イエス様も父の心を毎朝求めておられました。その人生をかけて私たちに道を示して下さいました。その道に従って歩む決断をします。そのためにも、今一度、イエス様も受けられた聖霊様の注ぎを私のうちに与えて下さい。知恵と啓示の御霊が私を満たし、真理を教え、解き明かしてくださいますように。
父の心を知り、終末の啓示を開いてください。そして、みことばの真理を解き明かしてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

カテゴリー: マナメール

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