■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書29章2節(テサロニケ人への手紙第一1章)
★わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。

■O:今日のコラム
アリエルとは、神の獅子という意味です。これはエルサレムを指しています。エルサレムの町の旗というのがあるのですが、そこには、ユダの獅子が描かれています。

主は、エルサレムにさばきを下す事を宣告されました。それは、主にとっては、祭壇の炉のようなものなのです。祭壇の炉とは、いけにえを完全に焼き尽くす炎があるところです。主にとっては、このさばきによってユダがきよめられ、自分の民、聖なる国民となることが期待されているのです。主のさばきは、失格の烙印というわけではなく、往々にして悔い改めて主に立ち返るための神の恵みなのです。もちろん苦しいですけれど。

神から離れてどうしようもなくなって、さばかれて、悔い改めて、元の位置に行く。さばかれて、悔い改めて、元の位置に行く。その繰り返し。それは良くありません。このルーティンは士師記の時代で終わりにしましょう!

離れてから近くではちっとも面白くありません!今の位置からもっと主の近くに行くために、私たちは日々悔い改めましょう!主のさばきに身を任せるのです。主の炎で焼かれることを受け入れるのです。それが砕かれた心です。『私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。』(詩篇119:20)

私が保育士のときにとんでもない失敗をした事があります。出来れば自分がしたことを隠してしまいたいとさえ思いました。クリスチャンとして主の名誉に傷をつけるとさえ思いました。しかし、主は私に『そんなことをして人から評価を保っても私は喜ばない、私はあなたの誠実さを喜ぶ』と語られ、猛烈な悔い改めに導かれました。そのときに自分の失敗を他の職員に告白し、自分がやったことを名乗り出、園長先生からどんなお叱りを受けても構わない。主の前に誠実であるならば、と園長先生の裁定、つまりさばきを覚悟しました。悔い改めとは、最後にはさばきを受け入れる覚悟が必要なのです。

 バプテスマのヨハネが悔い改めを説いたとき、パリサイ人たちは叱責を受けました。それは、『誰がやがてくる御怒りを逃れるように教えたのか!』という言葉でした。悔い改めは最後にはさばきを受け入れる覚悟が必要です。

イエス様もそうされたのです。ゲッセマネの園で、これからご自分がお受けになるさばきは、苦しみの極みであり、避けたい心さえありました。しかし、父の御心の通りにしてください、とさばきを受け入れ砕かれました。ゲッセマネとは、『油絞り』という意味です。そこでは、オリーブ油を絞りますが、礼拝に用いられる最上のオリーブ油は、砕かれたオリーブからわずかに流れ出る油のことです。主は砕かれてご自身に死なれることを表されました。

主の炎を受け取るという事は、自分が焼かれ死ぬ事を受け入れる事です。毎朝そのように祈り求めましょう!『あなたと一つになるためなら、そのきっとその日には、自分に死ななくてはならないようなとんでもない苦しみ、試練、問題がやってきます!ハレルヤ!それは主からの恵みです。喜びましょう!喜び踊りましょう!今まで以上に主の御そばに近づけるのですから。

■A:考えてみよう
毎朝、あなたと一つになるために、私をあなたの炎で完全に焼いてください。どうぞあなたのお心のままにお取り扱いください。私は死に、あなたが生きてください。と祈ろう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【まじまこ】

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