■S:今日の聖書の言葉
サムエル記第一19章9節
★ときにわざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。
23節
★サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。
■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!
第一サムエル19章を見ると、サウルは2度、神の霊が臨むことを体験しています。9節が1度目、23節が2度目です。しかし、1度目と2度目は同じ神の霊でも違いがあります。
【1度目】
9節を第2版で見ると、「主からの悪い霊がサウルに臨んだ。」新共同訳だと、「ときに、主からの悪霊がサウルに降った。」とあります。主からの悪い霊、主からの悪霊とは神様ご自身が悪いものをサウルに送ったのでしょうか?
「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」(ヤコブ1:13~14)
神は誘惑するお方ではありません。神が送ったのではなく、送ることを許されたということです。19章より前を読むと、確かにサウルは油注がれた王であり、神の霊が臨んでいたことがわかります。
では、何が原因で悪い霊がサウルに臨むようになったのでしょうか?サウルのうちに何かしら誘惑される(悪い霊が臨む)足場となる原因があったからではないでしょうか?
「サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。 」(第1サムエル13:8)
「サムエルはサウルに言った。『あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。』 」(第1サムエル13:13)
サウルはサムエルが来ることを恐れゆえに待つことが出来ませんでした。待ちなさいと言うシンプルな主からの命令に聞き従えなかったのです。
「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。 」(箴言19:2)
「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。」(箴言21:5)
「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」(第1サムエル15:35)
慌てること、待つことが出来ないのは罪です。サウルは待ちなさいという命令に聞き従えなかったことから低迷していき、自ら悪い霊が臨む足場を作ってしまいました。本当に悲しいことですが、最後には主が王にしたことを悔やまれるようになりました。
メッセージでも何度も語られ、マナメールでも多くの方が書かれていると思いますが、「聞き従うこと」はとても重要であり、私たちが真剣に取り組むべき課題であることがわかります。神の御言葉はもちろん、牧師、リーダー、親などあえて自分が訓練を受ける場に身を置きましょう。
【2度目】
「彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。以前からサウルを知っている者みなが、彼の預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。『キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。』」(第1サムエル10:10~11)
「そこでサウルはダビデを捕えようと使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。そのとき、神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。」(第1サムエル19:20)
「サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、『サウルもまた、預言者のひとりなのか。』と言われるようになった。」(第1サムエル19:23〜24)
悪い霊が臨むようになったサウルにでさえ、神の霊が臨み「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と言われるのはどうしてでしょうか?
10章と19章に共通していることはギブアでも、ナヨテでも「預言者の一団が預言をしていた」ということです。神を歓迎している人たちの中にサウルも入ったゆえに、神の霊が臨んだ、神の霊が注がれたのです。
神を歓迎する場所、神の臨在がある場所では神の霊が臨みます。私たちも礼拝の中や、祈りの家、神様の臨在が濃い中で、今までより深く神様を悟ったり、体験したり、何か自分の内にあるものがあらわにされたり、解決が見出されるそのようなことがあると思います。
私たちも、御言葉に聞き従えない、実際目に見える権威に従順になれない、サタンの足場となる要素を作ってしまうこともたくさんあります。ですから、あえて神の霊が臨みやすい、神を歓迎している場所、祈りの家、神の臨在が濃くある場所(もちろんどこでも歓迎する場所に聖霊様は臨んでくださいますが)に身を置いて、その中で御霊の助けを借りて、深い領域で悔い改め、罪について、義について、さばきについて悟り、私たちの内側が造り変えられていくことが出来ますように。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:7~8)
■A:考えてみよう
・サウルのように待てなかったこと、聞き従えなかったことはないでしょうか?悪い霊が臨む足場を作ってしまったのであれば、悔い改めて、御言葉に歩むことが出来ますように祈りましょう。
・御言葉、目に見える権威の元に身を置き、従順を学びましょう
・教会や祈りの家で祈り、自分を探る時間を持ちましょう
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まなくぼ 】
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