■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書12章4節~10節

★そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。

■O:今日のコラム
私は17歳の時、イエス様と出会う以前は、多くの日本人のように唯一の神を意識すること無く生活していました。しかし、地獄は恐ろしいところだという概念はありました。私が悪いことをすると、親や祖母は「そんなことしよったら、地獄に行くぞな」と私を叱ったものでした。また、家族で旅行に行った大分には、火山活動から出てくる様々な液体やガスによって作られた「地獄めぐり」という場所がありました。子どもながらに、ふつふつと沸き立つ赤い血の池地獄を見た時、とても怖かった事を覚えています。

天国が存在するのであれば、地獄もまた存在することを認めなければなりません。人間にとって、最も恐ろしいことは間違いなく「死」でしょう。しかし、私たちは感謝すべきです。なぜなら、イエス様は十字架で死に勝利され、その御方を心で信じ、口で告白するなら天国に行くことができるからです!

しかし、忘れてはいけないのは、永遠の御国への道が開かれただけでは終わりではないということです。十字架によって罪赦されたなら、継続した悔い改めと主により頼む生き方をしていく必要があります。その先にあるのが主の再臨です。ルカの福音書12章では、主が再び戻って来られる再臨に関して書かれています。その冒頭の箇所が今日のみことばになります。このことは、今、とても重要な主からのメッセージであると信じます。

イエス様は「人を恐れてはいけない」と言われます。もちろん、人に対して不遜な態度をとったり、愛の無い行動を取ることは間違ったことです。しかし、決して人を恐れてはならないのです。

イエス様は5節ではっきりとこう言われています。

「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」

私たちは正しい恐れを持つ必要があります。それは、創造主であられる主に対する恐れです。

皆さんは本当に神様を恐れているでしょうか。近年、教会の中であっても、イエス様の神聖が低められているように感じることがあります。「イエス様は友達!」といったりしますが、それは創造主であられる主ご自身が被造物である私たちを一方的に「友」と呼んでくださるのであって、被造物の私たちが決して神様を「友」とは呼べない立場であることを知らなければなりません。

神様は今の世だけでなく、これからの永遠という世界で、私たちがどこで過ごすかを決定する権威をお持ちのお方です。ところが、このような恐ろしい方が驚くべきことを言われます。

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(ルカ12:6~7)

神様は小さなすずめの一羽も覚えておられるお方です。そして、私たちはそのすずめよりも優れたものであると言ってくださっているのです。イエス様が何を言われようとしているかというと「恐れることはありません」です。

この「恐れることはありません」とは、「恐怖におののくこと、驚きに捕らえられること」という意味です。人を見て、また、まわりの状況を見て恐れるのではなく、本来恐れるべき方を恐れ、そのお方の恵みにより頼んで行く必要があります。

この話題の結論は8節からになります。

「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」(ルカ12:8~10)

人を恐れて「私はイエス様を信じています」ということを拒否するなら、私たちは神の御使いの前で拒まれてしまいます。人と神様、どちらを恐れるべきでしょうか?

さらに、10節には、「聖霊を汚す者は赦されない」とあります。これは難しい部分の一つですが、文脈から読み取れる意味は「イエス様のわざを見ながらも、それが神の御業だと受け入れない」という事でしょう。

昨日の聖書箇所、ルカの福音書11章15節からの続きだと思われます。

「しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言う者もいた。」(ルカ11:15)

聖霊様を汚す罪とは、神様のみことばを聞き、しるしと奇跡を見ながらも、なおもそれを神様の働きではないと主張する律法学者・パリサイ人に対して語られたことです。

■A:考えてみよう
自分は人を恐れていないだろうか。神に対する正しい恐れを持っているだろうか。

神様の「贖い、救い」という考えられない恵みの奇跡を受け取ったのにも関わらず、神のみことばに従っていない自分がいないだろうか。自分は律法学者・パリサイ人になっていないだろうか。

イエス様はルカの12章の後半で、「腰に帯を締めなさい」(35節)、「明かりをともしていなさい」(35節)、「目を覚ましていなさい」(37節)、「用心していなさい」(40節)と、再臨に関して、「備えなさい」と語られています。そのはじめは、神を恐れることです。

「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)

「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴言14:27)

主はいつ戻って来られるかは誰もわかりません。しかし、ヒントがあります。

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。」(ルカ12:38)

真夜中とは、午後9時から夜中の12時までです。夜明けとは夜中の12時から明け方の3時までです。主人が戻って来るのは光の無い時、人々が眠り、まどろみ、油断するときであることがわかります。

今こそ、気を引き締めて、目を覚まし、再び戻って来られる主に目を向けていきましょう。

■P:祈り
いつも私を愛してくださる天のお父さん、あなたの考えられない恵みに感謝してもしつくせません。
あなたはすべてのものを創造されましたが、人を特別に造られ、愛の対象としてくださったことを感謝します。
しかし、私には生まれながらの罪の性質があります。無条件で永遠の滅びに向かうしかなかったのがこの私です。ところが、このような私に主は御目を注いでくださり、御子イエス・キリストによる永遠の救いの道を開いてくださいました。私の前には永遠のいのちへの道がひらけていることを感謝します。
しかし、その道を主と共に歩くことをしないなら、救いは達成されません。どうか私に主の道、十字架の道、苦難の道を主と共に歩ませてください。その先にある喜びの報いを見続けて、たとえ今が苦しくても主と共に歩んでいく忍耐力を与えてください。聖霊様、弱い私を助けてください。そして、この地上の何よりも神であられる主を恐れることを教えて下さい。主の絶対的権威を認め、そのお方に従っていく喜びを教えて下さい。

まもなく私たちを迎えに来てくださる最愛の花婿、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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