■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記17章13節(出エジプト記18章)

★ヨシュアは、 アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

■O:今日のコラム
今日の聖書箇所は有名な聖書の箇所です。ヨシュアとアマレクの戦いです。ここでは二つの戦いを見ることが出来ます。

(1)山の上での戦い
モーセとアロンとフルは丘の頂きに登りました。そこで何をしたのでしょうか。モーセが手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、 アマレクが優勢になりました。しかし、モーセとても手を上げ続ける事ができません。手が重くなって下がるとアマレクが優勢になってしまいます。
そこでアロンとフルは石を持ってモーセを座らせます。賢いですね。モーセが座るとアロンとフルはモーセの手を支えやすくなります。しかし、私はここで次のような印象を神様から与えられました。
石とは何でしょうか。

「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。 というのは、 彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。 その岩とはキリストです。」(1コリント10:4)

石、岩とはキリストです。モーセはキリストの土台の上に腰を据えたのです。

「だから、 わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、 岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、 風が吹いてその家に打ちつけたが、 それでも倒れませんでした。 岩の上に建てられていたからです。」(マタイ 7:23-24)

そして、モーセは岩の上に座って何をしたのでしょうか。手を上げました。では、この手を挙げるとは何を意味するでしょうか。

「ですから、 私は願うのです。 男は、 怒ったり言い争ったりすることなく、 どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(1テモテ 2:8)

男性が手を上げるのは祈りを意味します。

また、イエス様はことばでもあられます。

「初めに、 ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。」(ヨハネ 1:1)

「あなたがたは、 聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、 聖書を調べています。 その聖書が、 わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ 5:39)

イエス様はみことばが受肉された方です。モーセはこの方の上に座り、そして祈ったのです。これが祈りの家の姿です。
この祈りの家は「聖なる宮」と呼ばれることもあるのです。そこでは霊的な戦いが行われいています。実は、ヨシュアとアマレクの戦いを支配していたのはこの宮での戦いです。実際にモーセが手を上げているとき、つまり祈っているときはイスラエルが優勢になっていました。これが祈りの家の姿です。

(2)地上での戦い
もう一方の戦いは山のふもと、地上で行われていた戦いです。この事を「聖なる山」と呼ぶこともあります。
ヨシュアが最前線で敵であるアマレクと戦っていました。実際的な戦闘は命がけで、大変な戦いでしょう。しかし、丘の上でなされる祈りにより、その戦いは勝ち戦となります。
このヨシュアの戦いは職場に、学校に、家庭に、あらゆる場所に遣わされている神の人を意味します。そこで戦う戦いは何によって決定的な勝利をもたらすのでしょうか。それが今日のみことばです。

「ヨシュアは、 アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。」(出 17:13)

モーセ、そしてアロンとフルの祈りにより、イスラエルの勝利は確定していました。しかし、実際に戦わなければ決定的な勝利を得ることはできません。その勝利は剣の刃によってもたらされました。聖書で剣とは何を意味するでしょうか。

「神のことばは生きていて、 力があり、 両刃の剣よりも鋭く、 たましいと霊、 関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル 4:12)

剣とはみことばです。あらゆるところに遣わされている人々は神のみことばによって決定的な勝利を治めることが出来ます。職場で、学校で、家庭で、みことばを宣言するなら、私たちはその場所で決定的な勝利を得ることが出来ます。

(3)ふたつのものがひとつに。

聖書の奥義はふたつのものがひとつにされることです。祈りの家である「聖なる宮」と、遣わされているところで戦う「聖なる山」が頭なるキリストによって一つとされることが教会の姿です。

「キリストこそ私たちの平和であり、 二つのものを一つにし、 隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、 敵意を廃棄された方です。 敵意とは、 さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。 このことは、 二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、 平和を実現するためであり、また、 両者を一つのからだとして、 十字架によって神と和解させるためなのです。 敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ 2:14-16)

聖なる宮(祈りの家)は遣わされている人々(聖なる山)のために24時間絶え間なく執り成し祈ります。遣わされている人々(聖なる山)は戦いで得た戦利品を聖なる宮(祈りの家)に携えて持ってきます。全ては私達の頭なるキリストのためです。

この両者を結びつけるのはキリストの愛です。

「モーセは祭壇を築き、 それをアドナイ・ニシと呼び、」(出 17:15)

「ニシ」とは旗、もしくは旗竿と言う意味があります。旗は聖書で何を意味しているでしょうか。

「モーセは一つの青銅の蛇を作り、 それを旗ざおの上につけた。 もし蛇が人をかんでも、 その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、 生きた。」(民数記 21:9)

「私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌 2:4後半)

愛とは何でしょうか。愛は神です。

「愛のない者に、 神はわかりません。 なぜなら神は愛だからです。」(1ヨハネ 4:8)

長くなりましたが、キリストの愛が聖なる山と宮を一つにされるなら、それが教会の本来の姿なのです。それぞれが召しがあります。宮で仕える者はますます熱心に仕え、聖なる山で戦うものはその戦いを磨く必要があります。これらは決して敵対するものではありません。愛によって頭なるキリストにつながる主の御身体です。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、 へりくだって、 互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ 2:3)

全てをイエス様のために。イエス様と顔と顔を合わせてお会いするその時まで、それぞれの場所で全力で戦って勝利をしていきましょう。

■A:考えてみよう
今、自分が召されているところで全力を尽くしているだろうか。手を抜いて行っていないだろうか。戦いは命がけです。主によって宮においても聖なる山においても勝利は約束されています。しかし、私たちが行動を起こさないなら、それは敵にやられてしまいます。
みことばの剣を握って、主を見上げて置かれている場所で勝利を治めていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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