■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書4章7節
★ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
9節
★そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
ーユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからであるー
■O:今日のコラム
今日の通読箇所の4節には「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」とあります。詳訳聖書には、「どうしても」と書かれています。「どうしてもそこを通らなければならない」と主が思うほどに、主の心が注がれていることは何だったのでしょうか。
主の心はサマリヤの女性に注がれていたのです。今日の箇所でイエス様が話しかけたのは、異邦人のサマリヤの女性でした。
6節に時は第六時(正午)とありますから、彼女は日が照っているとても暑い時間に水を汲みに来たのです。それは人々を避けていたこと、人前に出る資格などない立場であることの表れであると思います。
また、ユダヤ人とサマリア人が交流しないという文化から考えても、今日の箇所にあるように、「どうして私なんかに求めるのですか」という反応は一見もっともらしいです。
しかし常識や文化、自分がどのような者であるかを主は見ておられません。今日の箇所のサマリヤの女性に主が目を留めておられたように、主は一人も忘れることなく、一人一人と出会ってくださり、差し出すことを求めてくださるのです。
主は私に語り掛けてくださる、私のものを求めてくださる。全部造られたお方に、全部を持っているお方に捧げられるものがある、これはなんという恵みでしょうか。
それに対してどのように答えているかと考えさせられました。完璧な方に完璧なもので答えることはできません。私たちは完璧を捧げようとするからこそ、そんなもの捧げられないと思ってしまうのではないでしょうか。
しかしここに、へりくだりのように思えるむさぼりがあるのではないでしょうか。私は捧げる資格なんてない、ちっぽけなものしか捧げられないから、完璧ではないから、、、などと惑わされて、捧げることさえ拒んでしまうことがあることを思います。
完璧なものを捧げることなど私たちには出来ないことを主はご存知です。しかし捧げるべきものはあるのです。むしろ、完璧なものはいらないけれど、今持てるもの、今の自分の持てるものは主に捧げるべきものなのです。
そしてなにか完璧なことをイメージすると抽象的な感じになりますが、今捧げるものは、今向き合っていること、今握っているものですから、実際的であり、ある意味苦しいでしょう。捧げるとは実際的なものなのです。
「ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。」(2コリント8:11-12)
主はそれを受け取られるのです。ですから、主に今日の私の、今の私の持てる全部を捧げていきたいです。それが毎日毎日主について行く歩みではないでしょうか。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
4章を読み進めると、みなさんもよくご存知のように、物質的な水の話をした後に、主は霊的な水の話をして、それを主が与えるとおっしゃります。私たちに求めたあとに、主は、主のものを与えてくださることを覚えます。だからこそいつも良きものを、本当に握るべきものを与えてくださる主に信頼して自分のものを捧げていけるのです。
■A:考えてみよう
今日、私が捧げられるものはなんでしょう。主は他の誰でもなく、お一人お一人に求めておられることがあると思います。
例)賛美すること、祈ること、聖書を読むこと、握ってるものを手放すこと、経済を捧げること、従順になること、上司を祝福すること、人と時間を過ごすこと、、、、など。
求めておられるものを主に聞き、また語られたならば今日、具体的に行動として答えていきましょう。
■P:祈り
愛するイエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。
【 ゆうこ 】
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