■S:今日の聖書の言葉
エステル記1章12節(エステル記2章)

★しかし、王妃ワシュティが宦官から伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。

■O:今日のコラム
私たちの内に王妃ワシュティの性質は無いでしょうか?
ワシュティは王の命令を拒み、自分が催した宴会を優先させました。

私たちは王の命令である御言葉にすぐに従えているでしょうか?
主に語られても自分の予定を優先したり、自分のやり方や自分の意見を通していないでしょうか?
これらの行動は全て「自分・自分・自分」です。心の王座には、主が座られているのではなく、自分が座っていることになります。

これは本当に恐ろしいことです。
自分が王となり、王である主を軽く見、軽蔑することです。
そうするなら、どうなるのでしょうか?
この行動をとったワシュティは、王の前に出られなくなり、王妃の座まで失うことになりました。(エステル1:19)

この箇所が思い出されます。

「『天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」(マタイ22:2-3)

「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」(マタイ22:5-6)

ここに書かれてある通り、彼らは王の招待を軽く見、軽蔑し、自分の予定を優先させました。
王は、この者たちをどうしたでしょうか?
「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」(マタイ22:7)

私たちは御言葉を軽視し、軽蔑する自分の行動を軽くみてはいけません。
それは、後に恐ろしい結果を招くことになります。
主は必ず戻って来られます。私たちを迎えに来られます。
その時、私たちはどのような姿を主に見せるんでしょうか?
主を主ともせず、自分を主としている姿でしょうか?
それとも、自分に死に御言葉に従順している姿でしょうか?
この姿こそ、主の招待に「はい!」と答えることです。
主は突如として盗人のようにやって来られます。

■A:考えてみよう
・御言葉に従順せず、主を軽視し軽蔑していないだろうか?
・心の王座に誰が座っているだろうか?
今という時に、切に悔い改めを求めていきましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 おりえ 】

カテゴリー: マナメール

オンライン献金はこちらから。

大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。

オンラインサポートの手順

Comments are closed.

  • 最近のコメント

  • 新宿シャローム教会 大久保会堂


    〒169-0073 東京都新宿区百人町1-23-24アミューズ大久保ビル2F
    TEL 03-3371-7558
  • アーカイブ

  • カテゴリー