■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの手紙第二1章2節
★ このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。
■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!
キムヨンテ先生の学びの中で「永遠のいのち=従うこと」ということを学びました。私たちは「イエスキリストを信じ、口で告白したら救われる!永遠のいのちを得る。それで救いは完成。あとは何をしても大丈夫!」そのような福音を信じていないでしょうか?
「…恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)
「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。…」(Ⅱコリント13:11)
パウロは言葉は違えど、「救いを達成すること」「完全になること」「身たけに達すること」を繰り返し教会に向けて記しています。未信者に向けてではなく、信者に向けてです。これは1度信仰告白をしたら終わりというわけではないことがわかります。
ヨハネの手紙第二の全体のキーバース(鍵となる節)をあげるのであれば、「真理」「愛」→「従い、歩む」ではないかと私は思います。
真理
「このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。」(Ⅱヨハネ1:2)
「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」(Ⅱヨハネ1:4)
「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」(Ⅱヨハネ2:4)
愛
「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(Ⅱヨハネ1:6)
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3)
少し分かりづらいかもしれませんが、「真理」と「愛」が私たちのうちに宿る、とどまることは、従い歩み、行いが伴います。言い換えれば、「真理」と「愛」が私たちの内にとどまるのであれば私たちはそれに応答せずにはいられないのです。御言葉の上を私たちが歩むことです。
なぜそうするのでしょうか?
「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」(Ⅱヨハネ1:7)
私たちが惑わされないためです。ここに神の愛があります。
神様は私たちを愛する対象として創造され、永遠に共に過ごしたいと願っておられます。その愛に応える1つの応答が私たちが御言葉の上を歩む、御言葉に聞き従うことです。御国に入るのは狭い門を通らないといけません。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)
真理の道、狭き門をへりくだり、共にいのちを得る御国へと入っていくことが出来ますように。
■A:考えてみよう
御言葉に聞き従うこと、真理の中を歩むことは、行いが伴うということを聞くと億劫に聞こえる方も中にはいるかもしれません。
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)
真理は私たちを自由にし、真理なるお方、イエス様を通してでなければ私たちは父のみもとに行くことはできません。
私は全ての聖徒が、誰ひとり漏れることなく、御座に1番近いところ、イエス様の腕の中で永遠を過ごすことを願います。これは父の願いです。
ギリギリ滑り込みセーフで御国へ入って、御座から遠く離れた所で永遠を過ごす(恥ずかしい救い)のではなく、1番近いところで永遠を過ごす歩みを共にしていきたいと願います!!
■P:祈り
私たちの福音に対する心の目がはっきり見えるようになり、「愛」「真理」のうちを歩むことが出来ますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まな 】
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