■S:今日の聖書の言葉
第一歴代誌21章24節
★しかし、ダビデ王はオルナンに言った。「いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」
■O:今日のコラム
第一歴代誌21章では、罪を犯したダビデを通して、イスラエルに疫病が下される場面が出てきます。ですが、後に主はイスラエルにわざわいを下すことを思い直されます。
主の裁きを受け入れたダビデでしたが、神様の深い憐れみにふれられ、犠牲をもって主に捧げることを望みました。十分な金額を払い、オルナンの打ち場を買い取り、そこに主のための祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げました。それは主に受け入れられ、神罰はイスラエルに及ばないようになりました。
ダビデにご自身を現され、神の「裁き」と「憐れみ」が示された、このオルナンの打ち場は、アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山であり、ダビデの子、ソロモンによって主の宮が建てられた場所であり、その後にイエス様が十字架にかかられた場所だと言われています。
(1)モリヤの山
(2)オルナンの打ち場
(3)ソロモン神殿
(4)十字架
■A:考えてみよう
ダビデは自分の罪を悟れば悟るほど、犠牲を払ってでも、主にお捧げしたいという心になりました。
今日の箇所を読んだ時に「捧げ物には犠牲が伴う」ということを初めに教えられたのですが、でもその後に、私がどんな犠牲を払っても、それは神様の前に不十分である、という思いになりました。ですがその後に「命」という犠牲をもって捧げてくださったイエス様の十字架が思い起こされました。
新約の時代に生かされている私たちは、動物をほふって、毎日罪のためのいけにえを捧げるということはしません。ただ一度、イエス様が十字架にかかってくださった、その流された血潮を受けることによって、私たちはきよめられ、自分自身を生きた供え物として神様に捧げることができます。
このオルナンの打ち場であった出来事を含め、「主の宮が建て直されていく」そのプロセスの中にあったのは「裁き」と「憐れみ」であり、そこに表されていたのは絶えず「十字架」であったと思います。
神様に捧げたくても、造り変えられたくても、「私」だけでは「不十分」です。イエス様の十字架によって、初めて天のお父さんに受け入れられる十分な捧げ物となることができることを感謝します。
今日も、ダビデのように素直な心で罪を認め、悔い改めることができますように。
私自身という主の宮が完成されていくまで、今日もイエス様の十字架が何よりも必要であることを、更に深く知ることができますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あい 】
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