■S:今日の聖書の言葉
ガラテヤ人への手紙6章14~16節
★しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
■O:今日のコラム
私たちクリスチャンにとって聖書の神学は、正しく教理を理解し、極端や異端にずれることに対する守りという良き面があると同時に、真理を隠す覆いや、つまずきにもなりうるのです。神学の大きな弊害の一つに置換神学というものがあります。3世紀以降、イスラエルを全て教会と置き換える教えが神学の主流となり今に至ります。
その大きな誤解を生み出したのは、パウロの教えに対する曲解からでした。使徒の働きの中でもパウロは律法を否定し、ユダヤ人に敵対する者と評価されていますが、彼は根っからのパリサイ人であり、律法については誰よりも深く学んだ者でした。しかし、イエス・キリストとの出会いを通して彼は律法の本質を見い出すようになったのです。それが律法を否定していると見なされたのでした。
現代でも、多くの正統派ユダヤ人たちはイエシュア(イエス)以上にパウロを憎んでいるとメシアニック・ジューが言っていました。上記の御言葉においてもパウロは割礼の有無が大切なのでなく、新しい創造を受けた神のイスラエルが何であるかを解き明かします。しかし、これは律法を否定しているのではなく本質を言っているのです。
律法の本質とはイエス・キリストご自身です。主イエスは律法や預言者(旧約聖書)を廃棄するためにではなく、成就するために来られました(マタイ5:17参照)。全ての律法と契約は十字架の上で完成し、この主イエスの十字架による贖いを受けた私たちの内に、新しい契約が結ばれたのです。
それなので、自分の血統や肉体的なしるしを誇る者がイスラエルなのではなく、イエス・キリストの十字架を誇りとし、その血による契約を受けた民が神のイスラエルと呼ばれるのです。しかし、神は肉のイスラエルを見捨てたわけではありません。ローマ9章~11章を読めば、肉のイスラエル、すなわち民族としてのイスラエルが回復することをパウロ自身が語っています。
神がデザインされた完成した教会とは、ユダヤ人と異邦人が共にキリストの十字架により一人の人として主の御前に礼拝を捧げる教会です(エペソ2:13~16参照)。私たちはただ主イエスの十字架の恵みとあわれみによって、神のイスラエルとして接ぎ木された者として、へりくだりをもって異邦人の完成とイスラエルの救いを祈り続けようではありませんか。
■A:考えてみよう
今日、日本の救いとイスラエルの回復を共に声を上げて祈りましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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