■S:今日の聖書の言葉
ピリピ2章3節

★何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

■O:今日のコラム
私たち人間は生まれながらにしてわがままな存在です。他の人を押しのけてでも自分の意志をやり通そうとする頑固さがあります。わがままさ、自己中心がすなわち罪というものの根本なのです。このわがままさは放置しておくと深刻な結果をもたらし、死と滅びの実を結ぶようになります。わがままさは絶対に克服していかなければならない人生の課題です。そこで、わがままさが従順へと変えられる為のシンプルな秘訣が一言の言葉の中にあります。それは「はい」という言葉です。
 
子育てをする中において、子どもにこの訓練をチャレンジしています。私たち親が子の名前を呼んだ時、気持よく「はい」と答える訓練です。時には気分が乗らない時や、すぐに返事が出来ない時もあります。しかし、あきらめないで続けてこの訓練をしています。なぜなら、これは非常に重要な霊的訓練だからです。

イエス様はこの地上の歩みにおいて、ひたすら父の御心に従順しました。イエス様は自分が好む働きを勝手にしたわけではなく、父が行うこと以外、自らは何も行っていません(ヨハネ5:19参照)。そして、ゲッセマネの園においては「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られ、ついには十字架の死に至るまで父なる神の御計画に「はい」と答え、従順されたのです。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:9)

私自身がわがままさを克服していくためには、死にまでも従われた主イエスの十字架を見上げ、その十字架の足跡に従っていかなければなりません。人々から勘違いされ悪く言われる時、私たちも同じように不満を言い、悪口を言いふらすことは簡単です。しかし、それを放棄し、十字架に持っていき、自分を攻撃する人々をとりなすのは簡単な事ではありません。しかし、イエス様は神という特権さえも固執せず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられた方です(ピリピ2:6~7参照)。その事を思う時、私たちが固執して握っている怒りやこだわりはどれ程に小さなものだろうかと気付かされます。

弱き私たちを聖霊様は助け、自己中心の道から神中心(十字架中心)の道を歩む為の十分な力と恵みを与えてくださいます。その導きは「はい、主よ。」という一言から始まっていくのです。

■A:考えてみよう
以下の御言葉を朗読し、黙想し、今日も生活の中で、職場や学校の人間関係や家族の会話などの些細な領域においても、自分のわがままさを捨てて十字架の道を歩むことが出来るように、聖霊様の力と助けを求めて祈りましょう。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:3~8)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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