■S:今日の聖書の言葉
ローマびとへの手紙3章23, 24節

★すべての人は、 罪を犯したので、 神からの栄誉を受けることができず、 ただ、 神の恵みにより、 キリスト・イエスによる贖いのゆえに、 価なしに義と認められるのです。

■O:今日のコラム
罪というものは本当に恐ろしいものです。ローマの6:23の前半には

「罪から来る報酬は死です。」

と書かれています。
この罪はどこから来るのでしょうか。ヤコブの1章15節には次のように書かれています。

「欲がはらむと罪を生み、 罪が熟すると死を生みます。」

私たちの中にある欲から罪に発展し、それが死に至るというのです。
なぜ欲が生まれるかというと、自分勝手にしたいという願いがあるからです。私たちは創造主なる神に創造された被造物です。陶器師の手によって造られた器のような存在です。その器が陶器師に対して文句を言うことはできません。
それなのに、私たちは「あれがない」「どうして…」などと神様に対して文句を言ってしまいます。
もし、私たちが本当に神様に対して恐れ(畏れ)を持ち、神様の権威を認めているなら、こういったことは言えなくなるのではないかと思います。
器にはそれぞのれの目的があります。お皿でお茶を飲もうとすると不便で仕方ありません。同じように、私たちも神様の目的に沿って造られた者です。だから、私たちが神様の計画と違うように生きていくなら、苦しく神様に対して文句を言い続けてしまうかもしれません。
神様の目的と違う方向に歩むこと。これは的外れの生き方です。ギリシャ語で罪はハマルティアといい、文字通り的外れという意味です。
それでは、どのようにしたら的の真ん中を目指して生きることができるのでしょうか。残念ながら、自分の力ではそれをすることが出来ません。私たちを自分勝手な生き方から神様のみこころに沿った生き方に方向を変えることができるのはイエス様にしかできません。
今日の聖書の箇所には「私たちは罪を犯すと神からの栄誉を受けることが出来ない」と書かれています。神様の目的と違う事をしていたら神様から栄誉を受けることができないのも当然です。私たちはただ神様の恵みによって、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
この事は信じられないことです。本来なら死ぬべきものが価なしに義とされるのです。罪から来る死を、ただおひとり、一度も罪を犯すこと無くこの地で歩まれた神のひとり子イエス様のいのち、すなわち血の代価で私たちは贖われました。
贖うとは簡単に言うと所有権が移るということです。お店で商品を買う時に、レジでお金を払うとその商品はお店の所有から私たちの所有に移ります。それをいのちのレベルで行ってくださったのがイエス様の十字架です。

■A:考えてみよう
私は自分勝手に生きていないだろうか。
神様の召しに従って生きているだろうか。
神様の恵みに気づいているだろうか。
本来なら死んで当然の私を永遠の命へと招き入れて下さった驚くべき恵みに目を止めていきましょう。

■P:祈り
愛する天のお父さん、私を永遠の命へと導いて下さった驚くべき恵みを心から感謝します。このような信じられないような恵みを受けていながら、この恵みを忘れてしまい、恵みを放縦に変えて生きていたことを悔い改めます。
どうか私が瞬間瞬間、イエス様の十字架の恵みに目を向けることができるよう助けてください。私の内に残っている罪の性質をイエス様の血潮で洗い流して下さい。水であるみことばによって私の内なる人を洗い、血潮によってきよめ、御霊によって更新し、私の内なる人を新しくし、イエス様に似たものとして造り替えて下さい。
あなたの血潮によって、私は価なしに義と認められていることを心の底から感謝します。愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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