■S:今日の聖書の言葉
詩篇141篇(2テサロニケ1章)
★みことばは下の「O」に記します。
■O:今日のコラム
栄華を極めたソロモン王が残したと言われる書物で箴言があります。箴言の1章1節でも書かれていますが、ソロモンはイスラエルの王、ダビデの子です。ソロモンがこれだけの知恵を与えられたのは、もちろんソロモンが神様に願ったからですが、それと同時に家庭内での教えが行き届いていたからではないかと思います。
人は誰かに何かを教えられなければ何かを行うことは難しいでしょう。ソロモンも、あれだけの箴言を残せたということは、父であるダビデ、あるいは母から箴言の内容を来る日も来る日も聞かされていたのではないかと思います。その痕跡を今日の詩篇141篇に見ることが出来ます。
(1節)「【主】よ。 私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。」
ダビデは問題を叫ぶ相手をよく知っていました。それは全ての問題を解決できることができる主です。ソロモンもこのように言っています。
「【主】を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7a)
ダビデもソロモンも主を恐れていました。あるいは畏れていたと書いたほうがいいかもしれません。主を第一とし、この方に呼ばわることはとても価値が有ることです。
(2節)「私の祈りが、 御前への香として、私が手を上げることが、 夕べのささげ物として立ち上りますように。 」
ダビデは24時間耐えることのない礼拝を捧げる王でした。それ故、祈りも礼拝も熟知し、それを実践していた人です。そのダビデが祈りが香であり、手を上げて主を礼拝することがささげ物であると言っています。
箴言15:8にはこのように書かれています。
「悪者のいけにえは【主】に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。」
何かを主からもらうため、また取引として礼拝を捧げるのではなく、霊とまことを持って心から主を礼拝しましょう。
(3節)「【主】よ。 私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」
口は素晴らしい器官ですが、同時に暴れ狂う恐ろしい器官でもあります。私たちはこれを御霊の実を持って制御しなければなりません。
ソロモンも、箴言の中で口に関しては数多く語っています。
「あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、」(箴言6:2)
ダビデはくちびるが戸だと言っています。食べ物を食べる入り口でありますし、同時にことばを発する出口でもあります。この戸にイエス様の血潮が塗られる必要があります。口から出ることばがのろいのことばではなく、主を礼拝し、人々を励まし建てあげることばになりますように。
(4節)「私の心を悪いことに向けさせず、不法を行う者どもとともに、悪い行いに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を 食べないようにしてください。 」
ローマの12:1に「この世と調子を合わせてはいけない」と書いています。朱に交われば赤くなってしまうのが人の弱さです。不法を行う人とともにいるならいつのまにかその影響を受けてしまいます。不法を行わせる背後で働いているのはサタンです。私たちはサタンと歩みをともにするのではなく、主と共にくびきを負って歩んでいきたいものです。
箴言の1:10〜19では、罪人と共に歩む恐ろしさが語られています。その行き着くところは死であると書かれています。私たちは愚かなものではなく、賢いものとしてみことばに従順していく必要があります。
(5節)「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、 なおも私は祈ります。」
懲らしめは誰にとっても歓迎されないものです。しかし、ソロモンは箴言の中で叱責を侮ってはならない、軽く見てはならないと繰り返し警告します。その中でも、最も大切な叱責はみことばからの叱責です。
「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、 あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」
みことばを読む時、また心に刻んだみことばが知恵と啓示の御霊によって思い起こされる時、そのみことばに従順するなら主は霊を注いでくださいます。その叱責は歓迎できないものかもしれませんが、叱責を受け入れるならそれが私たちの冠となり、首飾りとなります。
(6,7節)「彼らのさばきづかさらが岩のかたわらに 投げ落とされたとき、彼らは私のいかにも喜ばしいことばを聞くことでしょう。人が地を掘り起こして砕くときのように、私たちの骨はよみの入口にまき散らされました。」
会社などで上司が叱られたり、また両親が他人から叱責を受けた時、自分の事以上に申し訳なく思ったり悲しくなったことは無いでしょうか。この地において神の声に聞き従うことが出来ず、悪の声を聞いてしまっている人たちにも同じことが起こるのではないかと思います。
イエス様が戻って来られ、サタンは地の深くに投げ落とされます。その時、人々は初めて自分の行いが間違っていたことに気がつくかも知れません。しかし、その時ではなく、今日と言う日に福音を伝えましょう。
「【主】を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」(箴言10:27)
周りの人達の背後で働く悪しき力が皆さんが運ぶ主の臨在の光によって退けられ、悪者の年が縮められることを宣言します。
(8節)「私の主、 神よ。まことに、 私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。」
私たちの目は鳩のような目でまっすぐに主を見つめる必要があります。十字架から目をそらすのであれば、私たちは知らず知らずに道を外してしまいます。ソロモンも次のように語っています。
「わが子よ。 あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、 わたしの道を見守れ。」(箴言23:26)
今日一日、全ての歩みの中で十字架を見上げていきましょう。主に身を避けましょう。主は皆さんを見守り、共にいて安息の中に導き入れてくださいます。
(9,10節)「どうか、 彼らが私に仕掛けたわなから、不法を行う者の落とし穴から、私を守ってください。私が通り過ぎるそのときに、悪者はおのれ自身の網に落ち込みますように。」
私は子どもの頃、弟と共に落とし穴を作るのが大好きでした。しかも、悪いことに落とし穴の底に泥水をためて被害が大きくなるようにしていました。(本当に悔い改めが必要ですね。)友だちを落とそうとしてたのですが、忘れていて夜に自分がその落とし穴に落ちた経験があります。
自分で仕掛けた罠は時として自分を捉えてしまうことがあります。また、人々は様々な罠を持って私たちを捉えようとするかもしれません。しかし、みことばの光はその罠を明確にします。よく、映画の中でセキュリティーのために宝物の周りをレーザー光線が通っていて、それに触れると警報がなるという物があると思います。あのレーザー光線が見えなければ私たちはすぐに引っかかってしまいますが、みことばの光はどこに罠があるかを照らし出してくれます。
「鳥がみな見ているところで、網を張っても、 むだなことだ。彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、 こっそり、ねらっているのにすぎない。 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、 持ち主のいのちを取り去ってしまう。 」(箴言1:17-19)
来る日に全ての人の行いは明らかにされます。今日、私たちの内に不正があるなら、正直に主の御前に告白し、悔い改めましょう。まず自分の中にある自分で作った罠を取り除き、そして周りの人が張り巡らした罠を知恵に導かれてくぐり抜けていきましょう。
■A:考えてみよう
ダビデはソロモンにみことばを教えこんでいたはずです。また、今でもイスラエルの民は子どもたちにみことばを家庭の中で教え込んでいます。それはシェマーと言われる申命記6:4からのみことばにも書かれています。これは第一の戒めです。
そのためにはまず自分の心の板にみことばを刻む必要があります。そして、それを子どもたちによく教え込む必要があります。
主を恐れることは知識の初め(箴言1:7)です。家庭の中で、職場の中で、一番に主を恐れるということの大切さを知ることが出来ますように。
■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたのひとり子、みことばなる主を私たちに送ってくださったことを感謝します。知恵と啓示の御霊によって、このみことばを悟らせてください。みことばをただの道徳律として、生活に役立てるためだけに読むのではなく、みことばの中からあなたの心を知ることが出来ますように。
ダビデに注がれた、またソロモンに注がれた、聖書に書かれいる人物に注がれた同じ御霊が今日、私のうちにも豊かに注がれ、みことばの中から主の心を知ることができることを感謝します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【 しゅん 】
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