■S:今日の聖書の言葉
第二テモテ2章20〜22節 (詩篇67篇)
★大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
■O:今日のコラム
茶道をしている牧師先生と以前に話しをしました。その先生が過去に一度だけ名器と呼ばれる器でお茶を飲んだのだそうです。その器は見た目には特別な器ではなく、金や宝石の装飾がなされているわけでも無いのに2000万円もの値段がつけられていたのです。先生はこの器を見た時、「なぜこれが2000万円もするのか?」と思ったそうですが、手にとってお茶を飲んだ瞬間、この器の価値が分かったそうです。なぜならその器はお茶を飲む人の手にフィットし、お茶を飲むのにあまりにも丁度よいので、最終的にはお茶を飲んでその器を置く時に「これを手放したくない。」と愛する人と離れるかの様な気持ちになったのだそうです。
私もこの器の様に「主の手に丁度フィットする器となりたい。」という願いを持っています。人の目に良い者、人気のある者、高価に見える者、では無く、主が見る時に「ああ。この器を私の入用の為に使いたい。この器は私の手に丁度合う器だ。」と言われる器となりたいと願っています。私達がその様な主の器となる為の重要なポイントが「聖さ」です。
パウロは若きテモテに「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。」(2テモテ2:21)と言っています。しかし、私達は「聖くなりたい。」という願いがあると同時に、自分で自分を聖める事が出来ない。という現実の間で悩み苦しみ葛藤します。そこで人は熱心な律法主義に陥ってしまう可能性があるのです。
聖さを求める時に私達は「自分の義に基づく聖さ」を追い求める為に、主の心からかけ離れた宗教的な生き方や律法主義に陥ってしまうのです。これがイエス様の時代の熱心な律法学者やパリサイ派の人々の現状でした。もちろん私達が「聖くなりたい。」という熱意を持って生活を変える事はとても重要です。例えば「噂話しを聞かない。」「汚れたものに触れない。」「悪いものから目をそらす。」と言う努力をするのは大切な事です。
しかし、どれだけ外側から来る誘惑を完全に防いだとしても、内側にある誘惑は治める事が出来ないのです。イエス様はマタイの福音書5章〜7章の山上の説教の中で、外側の律法の話しから、内側に律法が記される話しへと深めて行きます。そして私達の内なる人が変えられる時、もはや以前、肉が欲していたような様々なこの世の満たしが欲しく無くなり、むしろ、神の国に属する事、主の臨在や御言葉、主をもっと知る事を追い求める様になるのです。聖さは私達の内側から外側へと広がり、影響を与えて行くのです。
私達の内側を聖める事は人の力によるのではなくただ、聖霊様の働きにより、御言葉の洗いをもって、また主イエスの血潮によってなされるのです。「御霊、御言葉、主イエスの血潮」この三つが一つとなり、私達の内に主のあかし(キリストにある生き方)を築いて行くのです。ここに私達の信仰のフォーカスをあて続けましょう。
自分の基準でどれだけ努力をしたとしても栄冠を得る事は出来ません。
「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」
(2テモテ2:5)。
主の基準に従って生きる為に、その模範として歩まれたイエス様に私達の全ての注目を起き続けましょう。
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」
(2テモテ2:8)。
■A:考えてみよう
今日も聖霊様と、この方の臨在と満たしを求め、また御言葉の朗読と、主イエスの血潮の宣言をもって、主の基準に立った聖さを共に追い求めましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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