■S:今日の聖書の言葉
イザヤ53章12節(ピリピ4章)

★『それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。』

■O:今日のコラム
イザヤ53章は、メシヤ預言として知られています。イエス様が若枝として(ヘブル語でネイツェル、ナザレ人とも読まれる)お生まれになるところから、苦しみを味わわれ(苦い水の杯。イエス様はこの杯を取り除けて欲しいとさえ告白されました)、そして十字架を全うされました。
 それゆえに父は、イエス様をよみがえらせ、揺るがない王権、全ての名の上に名を置く王権をお与えになりました!ハレルヤ!
 イエス様は、私たちの模範となられたのです。私たちも日々、悔い改めて自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行く者とされました。なぜ自分の十字架を負っているのでしょうか?これは、飾りなのでしょうか?筋トレのためでしょうか?それとも誰かが使うのでしょうか?そうです!自分の十字架は、自分が使うのです。自分の十字架を全うするとき、死と葬りと復活という福音の最も大切な事が、自分に実現するのです!
 私達が、私たちの中の小さい領域(妬み、怒り、プライド、情欲など)に死に、その罪を十字架に打ち付け、血潮を宣言して悔い改めるなら、そのことのテスト(試練)が必ず待っています。それが自分の十字架です。それを全うするなら、栄光によみがえり、罪との関わりは絶たれ、その領域に権威を持つようになっていきます。

『 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。』(Ⅰペテロ4:1)

 その領域に関しては、主とともに御座に座っているといえるのです。

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──』(エペソ2:5)

 イエス様は、御座に着座されとりなしを続けておられます。私たちも十字架をどんどん全うしていくなら、主とともに治める者となり、また現代においては、とりなす者となっていくのです。

■A:考えてみよう
とりなしの思いが来るなら、素直にとりなしに応じよう!

■P:祈り
自分を捨て、十字架を負い、イエス様について行きます。どうぞ、ともに座らせ、ともにとりなし、ともに治める者としてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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