■S:今日の聖書の言葉
ローマ9章8節、30-32節

★すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

★では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

■O:今日のコラム
神様の子どもとなって、神様との親しい関係を持つ。
神の子として、生活のあらゆる領域で主の臨在を体験する。神様の祝福を受ける。
神様(王の王)の子孫(王子、王女)として神様とともに治めるものとなり、御心を行う恵みをいただき、神様の遺産を相続する…。

神の子となる、とは、このように大きな恵みです。
しかし、この恵みは、ユダヤ人として生まれたらもらえるのではなく、あるいは、ユダヤ教に入信して、ユダヤ教の律法を守ったらもらえるのではなく、さらに、キリスト教の戒律(?)を守ったらもらえるのでもなく、私の罪のために死んでくださった主イエスの十字架と復活、つまり、御子の福音を信じた者が与えられるのです。

イエス様が、ある時、良い麦と毒麦のたとえを話されました。
毒麦は、見たところは麦に似ていますが、雑草で、食べることはできない、むしろ毒があると。

麦のような見た目とは、外側の行いが正しい、義である、ということに当てはめられるでしょう。しかし、毒麦であって、小麦でない、ということは、食べたら、栄養になるどころか、有害である、ということです。

「義」にも、外側だけの「人間の義、自分の義」と、十字架を通して神様から私たちの内側に与えられ、そこからあふれ出る、「神の義」があります。

神の義は、イエス様を地上に送ってくださり、救いの道を用意してくださった父なる神様の義であり、
私たちを救うために、この地に来て、私たちのために、十字架に架かって死んでくださったイエス様の義です。
またイエス様の血潮を信じて聖められた私たちに注がれ、私たちに正しい行いをする力を与える聖霊の義です。

この神様の義に出会うとき、私たちには自由な意志があります。
このまま、罪を犯し続ける自由、神様から離れて歩み続ける自由、赦された、いやされたことを喜ぶけれども、また神様抜きに生きて行く自由、あるいは、戻って来て、神様に感謝を捧げる自由。神様の愛に応えて、自分にできる最高の愛で神様を愛する自由があります。

クリスチャンとは、神様の義と出会って、その愛に感動し、この愛に応えて生きたい!と決心した人。また神様の義を通して、神様御自身と出会って、神様の素晴らしさを味わい、この方とずっと一緒にいたい、この方とともに人生を歩みたい、と決心した人たちのことです。

ですから、この人たちは、神様を喜ばせたくて、神様の愛に応えたくて、「義」の行いをしますが、それは救われるためではないし、神様からの愛をもっともらうためでもありません。また、「義」の行いをしようとして失敗した時に、神様から裁かれる!という恐怖もありません。悔い改めて、もう一度神様の方を向く時、神様は私たちを赦して、もう一度、神様と共に義の行いを行って行く恵みを与えてくださいます。

彼らは、神様からあふれるほどの愛で愛されているので、もっと神様を愛したい、神様に従いたい、と願って、神様の喜ばれる行いをしているのです。

このような人たちからは、美味しい実が結ばれます。
それは、自由であり、喜びであり、平安であり、柔和さや謙遜であり、偽りのない愛です。

一方、毒麦とたとえられるのは、外側だけの人間の義です。
神様の義と出会っていないので、よい行いをしていても、「こんなにやっているのに」という高慢や不満、怒り、苦々しさがあり、「あの人はやっていない」という裁き、批判や、また「なぜ、あの人はあんなに祝福されているのか?なぜ私は~なのか?私も神様の祝福に預かるために、もっとあの人のように~しなければ。」という比較、競争、ねたみ、焦り、などが内側にあり、食べると苦いのです。

パウロが執り成している彼の同胞ユダヤ人たちは、外側に自分の義がありましたが、イエス様に示された神様の義を受け入れなかったので、神様の子どもとなれていなかったのです。
ですから、彼らがどんなに表面的に律法を守っているように見えたとしても、そこには、激しいねたみや、憎しみ、殺意、高慢や、ののしり、そしりがありました。

彼らは、「信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたから」なのです。

■A:考えてみよう
クリスチャンであっても、このユダヤ人たちのように、自分の義を求めてしまう誘惑や惑わしはやってきます。だから、イエス様は、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われました。
いつも、十字架に、御子の福音に、啓示された、「神様の義」を信仰によって追い求めましょう。もし、神の義の「実」である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」がないなら、今自分が行っている義のわざが、「神の子として愛されているから行っている自由な愛の表現」なのか、神様から(あるいは周囲の人から)認められるため、神様からの祝福をもっと勝ち取るために行っている自分の義、自分の頑張りなのか、もう一度、吟味してみましょう。

■P:祈り
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

自分の義ではなく、神様の義を、第一に求めます。
すべての必要は、それに加えて与えられることを、心から感謝します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

【 とも子 】

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