■S:今日の聖書の言葉
申命記21章22~23節
★ もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。
ローマ人への手紙5章21節
★ それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
■O:今日のコラム
しゃろーむ!6月28日の朝です。今日一日も、主の恵みに支配され、永遠のいのちの中を歩んでいきましょう。イエス様が僕らの全てののろいを引き受けて下さったからです。僕らは、のろいの中を生きていく必要はありません。
ローマ人への手紙の5章は、僕らに、イエス様の十字架の血潮による恵みの深さを教えてくれます。リビングバイブルで1節から11節までまず読んで見ましょう。
「そういうわけで、私たちは、神様の約束を信じる信仰によって、神の目から見て正しい者とされているのですから、今や神様との間に真の平和を得ています。 それは、私たちの主イエス・キリストのおかげです。 信仰のゆえに、キリスト様は私たちを、いま立っている、この最高の特権ある立場に導いてくださいました。 そして私たちは、神様の私たちに対する計画がすべて実現するのを、確信と喜びにあふれて待ち望んでいるのです。 私たちはさらに、さまざまの問題や困難に直面した時も喜ぶことができます。 それは忍耐を学ぶのに役立つからです。 忍耐によって、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。 こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。 そうなった時、どんなことが起ころうと失望落胆せず、また、万事が益であるとわかります。 それは、神様がどんなに深く愛していてくださるか、わかるからです。 私たちは、そのあたたかい愛を全身で感じています。 それは、神様が聖霊様を与えてくださり、その聖霊様が私たちの心に、神様の愛を満たしてくださっているからです。 私たちが逃れる道もなく、全く窮地に陥っていた、まさにその時、キリスト様はおいでになり、何の役にも立たない、私たち罪人のために死んでくださいました。
たとい私たちが良い人間であったとしても、だれかが自分のために死んでくれるなどとは、考えてもみなかったでしょう。 もちろん、そういう可能性が全然ないわけではありませんが。 しかし、私たちがまだ罪人であった時に、神様はキリスト様を遣わしてくださいました。 そのキリスト様が私たちのために死んだことにより、神様は私たちに、大きな愛を示してくださったのです。 キリスト様は、罪人のために、血さえ流してくださったのですから、神様が私たちを無罪と宣言した今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。 今やキリスト様は、やがて来る神様の怒りから、完全に救い出してくださるのです。 私たちが神様の敵であった時に、神のひとり息子の死によって、神様のもとに連れ戻されたくらいですから、私たちが神様の友となり、神様が私たちのうちに生きておられる今、どんなにすばらしい祝福が備えられていることでしょう。 今や私たちは、神様との驚くべき新しい関係を心から喜んでいます。 それはただ、主イエス・キリストが私たちの罪のために死んで成し遂げてくださったこと、すなわち、私たちを神様の友としてくださったことのおかげなのです。」(ローマ人への手紙 5:1-11 JLB https://bible.com/83/rom.5.1-11.JLB)
主は、僕らに、さらなる希望を与えてくださいます。12節からの後半を見てみましょう。
「アダムが罪を犯した時、罪は全世界に入り込みました。 アダムの罪により、死が全人類に広まり、すべての人は年老いて死ぬよう定められました。 それと言うのも、すべての人が罪を犯したからです。 これらの原因がアダムの罪にあることを、私たちは知っています。 というのは、もちろんアダムからモーセまでの時代にも、人々は罪を犯していましたが、神様はそのころには、ご自分のおきてを破ったかどで、彼らに死刑を宣告したりは、なさらなかったからです。――神様はまだ、彼らにご自分のおきてを与えず、また、彼らにどんな行為を望んでいるかも、告げておられなかったのです。 そういうわけで、彼らの肉体の死は、彼らの罪のせいではありませんでした。 アダムのように、禁断の木の実を食べるな、という神様の特別のおきてを破ったわけではないからです。 アダムと、やがて来ることになっていたキリスト様とは、なんと対照的でしょう。 人間の罪と神様の赦しとの間には、なんと大きな違いがあることでしょう。 一人の人アダムは、自分の罪によって多くの人に死をもたらしました。 しかし、一人の人イエス・キリストは、神様のあわれみによって、多くの人に赦しをもたらしたのです。 アダムの一つの罪が、多くの人に死の罰をもたらしました。 一方、キリスト様は、無代価で多くの罪を取り除き、その代わりにすばらしいいのちを下さるのです。 この一人の人アダムの罪により、死はすべての人を支配する王となりました。
しかし、神様から、罪の赦しと無罪放免という無代価の贈り物をいただく人はみな、この一人の人イエス・キリストによって、いのちの王となります。 そうです。 アダムの罪は、すべての人に刑罰をもたらしましたが、キリスト様の正しさは、人々を神様の前に正しい者とするのです。 それで、人々は生きることができるのです。 神様に従わなかったアダムは、多くの人を罪人にしましたが、神様にお従いしたキリスト様は、多くの人を神様に受け入れられる者としてくださいました。 「十戒」が与えられて、すべての人は、自分がいかに神様のおきてに従いえない存在か、よくわかるようになりました。 しかし、私たちは、自分の罪深さを知れば知るほど、赦してくださる神様の満ちあふれる恵みが、いっそうわかるようになるのです。 以前は、罪がすべての人を支配し、死に導きました。 しかし今では、反対に神様の恵みが私たちを支配するようになり、主イエス・キリストによって、私たちに神様の前での正しい身分を与え、永遠のいのちへと導いてくれるのです。」(ローマ人への手紙 5:12-21 JLB https://bible.com/83/rom.5.12-21.JLB)
自分の罪深さは、神様からのろわれるべきものでした。罪の報酬は死です。しかし、イエス様の十字架の血潮によって、僕らに義の賜物である神様の子供としての権威を与え、神様の前で正しい身分が与えられました。イエス様が十字架の上で完全にのろわれた者となってくださったことで、僕らは、永遠のいのちへと導かれたのです。
「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」
だから、イエス様の十字架の血潮によって自分を洗っていきましょう。きよめられていきましょう。主の恵みに応え、今日一日を歩んでいきましょう。
■A:考えてみよう
僕らは、永遠のいのちを得ました。永遠のいのちを得て、僕らは、何ができるでしょうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひろみち 】
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