■S:今日の聖書の言葉
出エジプト記10章9節(出エジプト記11章)
★モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」
■O:今日のコラム
モーセが「子供たちも家畜もみな出て行く」と告げると、パロはそれを悪意とみなしました(10節)。「壮年の男」だけ主に仕えなさい、これがパロの要求でした。
主に仕えるのは大人だけで、子供は関係ない、というのは悪魔のささやきです。また、主に仕えるのは、若い元気なクリスチャンだけで、年配の私には関係無い、、と言うのも違います。なぜなら、ヨエル書2:28に
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」
とあるからです。主の計画は、一つの世代だけでなく、「すべて」の世代にあります。私と「私の家」は主に仕えるのです。
主が再びエジプトを打つと、パロは最後にこのような要求をします。
「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」(24節)
「羊と牛はとどめておけ」…これに対して、モーセはパロにこのように答えます。「私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。」(26節)
モーセが妥協することなく、パロにはっきりと「No」と言えたのはなぜでしょう。それは、主がいけにえを捧げることを命じられたからです(出3:18)。また、主の祭りをするためです(出10:9)。この目的から外れて約束の地に入ることなど出来なかったのです。
教会が目的から外れては、どれだけ人の目に華やかに見えても主に喜ばれる礼拝は捧げられません。そこに、まことの楽しみと喜びはありません。主の前に近づくためには、ささげものが絶対に必要です。私たちのために流された尊き子羊の血潮、主イエスキリストの贖いの血によって、私たちは大胆にまことの聖所に入ることが出来るのです。
■A:考えてみよう
パロがモーセに出した最後の要求が、「ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。」であることに注目したいと思います。
サタンは様々なことを私たちにささやいてきますが、特に強くささやいているのは、「あなたの生活に、いけにえ(悔い改めとイエスの血潮)は必要ない。」です。これに対して、私たちはモーセのようにはっきりとNo!と言わなければなりません。
10章の最後のパロの要求を見る時に、最後の最後までサタンがとどめて(隠して)おきたいことが「罪のためのいけにえ」であることを覚えます。また同時に、終わりの時に私たちに開かれるべきことがこの「罪のためのいけにえ」、すなわち、「イエスキリストの十字架の血潮」であることをほめたたえます。尊き子羊の血潮なしに、私たちはクリスチャン生活を送ることなど出来ません。たとえ教会が大きくなったとしても、十字架の目的を失っては私たちは幸せではないのです。
モーセのこの言葉が私たちの日々の告白となりますように。
「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」
毎日、家族でイエスキリストの血潮を宣言しましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ひさえ 】
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