■S:今日の聖書の言葉
ヨハネ5:44
★互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
■O:今日のコラム
信じることができますか
の「信じる」とは「信仰を持つ、信頼する」という言葉です。
私は今まで、「信仰を持つ」と言うことをデボーションの中でも何度も語られてきたり、信仰を持つことを適用として用いたり、「信仰を持つこと」は当たり前の言葉のように使ってきました。
「信じること」
「信仰を持つこと」
当たり前のように、クリスチャン用語として使っていましたが、分かっていたようで実際、本当に「信じる」「信仰を持つ」とはどういうものなのかを知らなかったことに最近気づいたのです。
ただその用語を当たり前のように使っていただけで、実際どのようなことなのか、どうすればいいのか、聖書では本当に何と言っているのかが分かっていませんでした。
なので、自分の中でクリスチャン用語禁止例を出し、一つ一つの意味を考えることを現在実施中です。そうすると、よく分かっていたようで分かっていなかったことが沢山あることに気づかされています。
特に「信仰を持つこと、信仰すること」について学ぶ中で、自分が思っていたことは少し違った考えであったことを気付かされました。
なにか自分の心を打ちたたいて、必死に思おうとして信じようとしていたり、
自分の力で頑張って信仰を持つ、必死に思わせるような信仰の持ち方を持っていたと思います。
信仰とは「神様からくるもので、神様から説得されること、神様からの保証書を受け取ること」という意味があることを原語の言葉から見たり、他の聖書箇所を見たり、メッセージを聞いて、自分は違う考えを持っていたことに少しづつ気付かされています。
また、自分の考えや求めるもの、見ているものが神様と違うと、信仰を持てなくなることにも気付かされました。
今日の箇所では、その一つの例が挙げられています。
それは、神様からの名誉、評判、栄誉ではなく、人からの名誉、評判、栄誉を求めているときです。
もしくは、神様が思う名誉、栄誉と自分が思う名誉、栄誉が違うことに気づいていないとき、
神様からの名誉、栄誉の受け方や受ける方法と、自分が思う名誉、栄誉の受け方や方法が違うとき
自分が価値を置いていることと神様が価値を置いていることが違うときとも言えると思います。
こうしたらこうなる…というように、
これをすれば立派だ、これをできれば素晴らしい働きと、人や自分は考えるかもしれません。
私も努力をして神の子として愛を流す立派な器になる、神様の立派な器になるように頑張るというような思いがあったことに気づかされましたが、努力して頑張って立派になる、何かをして努力をして霊的になるという思いは神様の子として間違っていたこと、
自分の思う「クリスチャンとしての立派さ」も間違っていたことに気づき、
今日の箇所にあるように、神様と自分の思いが違っていたことが分かりました。
また、毎日何章読んでいるから、毎日何時間祈ってるから、どういう働きを行っているから…などの宗教的な思いからくる行いと信仰を持つということは、全く違うことにも改めて気付かされます。
でも、神様と自分が見ているもの、考えているものに違いがあると、
神様に、神様の言葉に、状況や環境、自分の感情によらず、神様に信頼すること、信頼を持つことができなくなってしまうということを深く実感しています。
どんな状況でも環境でも、最も暗い辛い中でも、変わらずに神様に信頼すること、神様に全き信仰を置くことがとても大切であり、
クリスチャンとして神様を信頼することはとっても重要なことであることを改めて感じます。
答えがないときでも、神様を信頼することが答えであり、
そして神様に信頼するとき、どんなときでも神様からくる強さが溢れてくるのだと思います。
信じることができるように、神様に信頼し続けることができるように、
自分と神様の考えや思い、見ているものに違いがないように、神様の心を求め続けたいと思います。
■A:考えてみよう
「信頼する」「信仰を持つ」とは何か?
自分の思う名誉、評判、栄誉と神様からくる名誉、評判、栄誉に違いはないだろうか?
自分の見ていることと神様が見ていること、自分が価値を置いていることと神様が価値を置いていることに違いはないだろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ありさ 】
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